2012年8月アーカイブ

14回「海洋観測と技術」

石森繁樹

14.1 海洋観測

海を知る最良の方法は海を観測することであろう。海の観測といえば流速を測るものや水温、塩分、透明度など海水の特性を知るものが代表的だが、目的によって様々な観測が行われる。海洋観測指針(1)には、採水と測温、測流、海水の透明度と水色、測深、海洋の底質と地殻、海水の化学分析、海洋生物、海洋の放射能、波浪、潮汐、津波と高潮、海氷の測定について総論、測定方法、測定機器、計算方法、観測結果の整理、原簿の記載法など詳細な記述がある。

富山湾の海流はどうなっているのだろうか。図14.1は電磁海流計(GEKGeomagnetic Electro Kinematograph)により流れを観測した例(2)である。19744月から7月にかけて実施した10回の観測値を一枚の図に描いてある。湾内33点での平均流速は0.54ノット(標準偏差0.20ノット)、最強1.0ノットで、いずれも湾奥に向かう南流成分をもっていた。北部海域の観測が抜けているので富山湾全体の海流像にはなっていないが他機関の観測と同じ傾向を示している。GEKの測定原理はなかなか面白く、地球磁場の中で電極をつけた電線を曳航し発生する起電力(ファラデーの電磁誘導の法則、ローレンツ力)から流速を知るものである。実際の海流を測定するには船を直交する2つのコースで反転往復して走らせる必要がある。

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 図14.1 GEK観測(1974)         図14.2 能登半島付近の海流

14.2は音波を利用した海流計ADCP(Acoustic Doppler Current Profiler)で計測された流れ(3)を示している。輪島沖の海面下20mにおいて0.60.7ノットの東流がみられるが流速は場所により大きく変化している。ADCPの測定原理(4)は、船底に取り付けられたトランスデューサから超音波(例えば150kHz)のパルスを送信し水中のプランクトンや粘土粒子などの微粒子が散乱する音波を同じトランスデューサで受信する。散乱体がトランスデューサの方向に近づけば受信波の周波数は送信波の周波数より増加し、その差であるドップラーシフトが得られる。散乱体となる微粒子がその場の流れに身をまかせて流されるものとすれば、ドップラーシフトから音源に相対的な流れを求めることができる。散乱体からの受信波はレイリー散乱と考えられる。音波の波長が約1cmであるのに対して散乱体の大きさは1100μmのオーダーと見られるからである。図14.3はアルゴス・ブイの漂流軌跡である。19971月のナホトカ号重油流出事故に際して海上保安庁が放流したブイの軌跡で、流れの状況をわかりやすく教えている。このシステムは海面のブイに抵抗体(穴があいた円筒)を吊り下げ、ブイが発信する電波をNOAA衛星で受信し位置を計算して表層の流動を求めるものである。112日に沈没推定海域で3個、116日に能登半島先端付近で1個が投入されたが4個とも個性的に流れているのが印象的である。能登半島先端からのブイは南から南東へ流れ、直径約40kmの反時計回りの輪を3度描いて糸魚川の海岸に漂着した(210日)。このブイの軌跡を見ると、重油が富山湾に侵入しなかった理由は、タイミングよく吹きだした南西風によるものと納得できる。漂流ブイは風の直接的な影響を少なくするため抵抗体の中心が海面下15mになるよう設計されている。

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 図14.3 アルゴス・ブイの漂流軌跡

       (海上保安庁 1997.1

 

以上富山湾で実施してきた流れの観測例を2、3述べたが測流ひとつとっても多様な方法がある。

ここで、海洋観測に関する話題を2つ紹介する。

ひとつはアルゴ計画(Argo project)である。海洋と気候の関係を理解し、気候の予測を行うには世界の海洋の状況把握が不可欠である。本計画は中層フロート(図14.4)を世界の海に3000個投入して全海洋を常時観測するシステムとして国際協力の下で推進されている。20062月時点で2151個の中層フロートが投入されている(14.5)。ブイは海面から深さ2000mまでの間を自動的に浮き沈みしながら水温と塩分を観測し、衛星経由でデータを配信している。データは誰もが自由に使用でき、海洋内部の水温や塩分の分布状況、中層フロートが流れる深度の流れの把握などに利用されている。

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 図14.4 アルゴ計画と中層フロート(気象庁)

 

 

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 図14.5 中層フロートの運用状況 (気象庁)

つぎは、TAO/TRITON海洋観測網(図14.6)である。これは係留ブイを熱帯域に展開し、エル・ニーニョ現象解明のため広域の気象・海象を計測するものである。わが国は西部海域に20基のトライトン・ブイ(Triton buoys)(図14.7)を設置して、風、気温、湿度、降水量、日射量、および水温、塩分、流速を観測している。

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 図14.6 TAO/TRITONブイ観測網

 

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 図14.7 トライトン・ブイ

         (JAMSTEC)

 

 

14.2 リモートセンシングによる海洋観測

気象の分野では観測衛星が大活躍している。最初の人工衛星スプートニクの打ち上げ(1957)から3年後にはタイロスが地球の雲の映像を送ってきた。いまから見るとお粗末なテレビ画像であるが、大気・海洋・大陸を総観する新たな視点を与えた意義は大きかった。その後も矢継ぎ早に各種の衛星が打ち上げられ、わが国では1977年に静止気象衛星「ひまわり」が赤道上空からの観測を始めた。海洋に関しては気象衛星に10年遅れ海洋観測衛星「もも」の検証実験が開始された(1987)。「もも」には可視・近赤外センサー(MESSR)、熱赤外センサー(VTIR)、マイクロ波センサー(MSR)が搭載され、富山湾においても水温や透明度などについて衛星観測の有効性を検証する実験(5)が行われた。海洋科学に衛星観測の展望を開いたシーサット(1978)は合成開口レーダ、散乱計、高度計、放射計など各種センサーを搭載しマイクロ波による海洋観測を実施した。この衛星はわずか3ヶ月の寿命で終わったが海上風、波高、波スペクトル、海面トポグラフィーについて有用な結果をもたらした。こうして雲のあるなしにかかわらず観測できるマイクロ波センサーは海洋衛星観測の主役として以後の観測衛星に継続的に搭載されることになった。例えば高分解能映像レーダである合成開口レーダはEERSJERSRADARSATALOS(だいち)などの衛星に搭載され全世界の陸面・海面の画像を取得している。筆者らは富山湾の波浪観測に合成開口レーダ・データを適用してその有効性を検証する実験(6)を行った。その結果、「寄り回り波」のようなうねり性の波について広域の波向、波長など有用な情報が得られることを確認した。波浪については現在気象庁が数値モデルによる沿岸波浪予報を実施しているが、上記の衛星画像はこの沿岸波浪図と比較してはるかに詳細な情報を含んでいる。衛星観測には広域の観測がほぼ同時に行えること、陸から遠く離れたどんな海域でも観測できること、同一地域を繰り返し観測できることなどの利点がある。ただし、可視・近赤外センサーはマイクロ波とは異なり雲があれば海面観測は不可能である。

観測データから実海域の物理量たとえば水温を推定するには船を動員して現場で実測した表皮水温との照合が必要となる。わが国が打ち上げたADEOSⅡにはクロロフイル計測センサーが搭載されたが、クロロフイル量の推定にも同様の手続きが必要である。このように海洋リモートセンシング技術の向上には衛星観測に同期して現場観測を行い(sea truth)衛星データを海上データに回帰的に適合させる照合検証を重ねることが不可欠である。検証実験により物理量推定についての確実な知見が得られたときはじめて、衛星海洋観測は実用の段階を迎えることになる。よく指摘されるように海洋は未知な点が多い。その最大の原因は海が近づきがたく、海上観測が容易でないことである。気象学の分野で人工衛星データが導入されて天気予報の精度が格段に進歩したように、海洋学の発展のためにもリモートセンシング技術の利用を促進することが肝要であろう。そのためには衛星観測に同期して現場海域における基礎データを多数収集することが必要である。一般的に現場観測は船を使用して実施されるが衛星の観測に合わせて船を運航することは容易でないし、近づきうる海域にも限界がある。そこで期待されるのが高い機動性と計測能力を備えた観測ロボット船の開発である。

 

14.3 レーダ(SAR)を用いた海洋波の観測

レーダは電波(マイクロ波)を発射して目標から帰る電波を受信するものであるが、受信波の中の信号の大きさは目標の物体表面が電磁波を散乱する能力に比例する。この能力は目標物体の後方散乱係数といい、慣習によってσで表す。σは表面の電気的な性質と形状、とくに表面の粗さで決まる。人工衛星に搭載されるレーダに合成開口レーダ(SARSynthetic Aperture Radar)がある。レーダはアンテナの大きさで分解能が決まるのであるが、衛星には大きなアンテナは積めないから高速飛行を利用して、あたかも長大なアンテナを搭載しているかのように工夫されたのがSARである。

SARで波浪が観測される理由は次のとおりである。マイクロ波は海面に当たると水中に入りこめず表面で散乱する。この海面散乱の立役者は「さざなみ」であるというのが現在の電波海洋学の基本になっている。海面にさざなみがあればマイクロ波の波長に共鳴する波がどこかにあるはずで、そこでは干渉がおこって強く散乱する。このような散乱は海面を回折格子とみなすのでブラッグ散乱といえる。風が吹けばさざなみが立つ。さざなみが立てば散乱が強まりσが大きくなってSAR画像の輝度が増す。

次は波浪とさざなみの関係である。海面にうねりがあるとする。うねりの山と谷にある水粒子は楕円運動をするが山と谷では回転の方向が反対である。そのために、谷から山への部分と山から谷への部分には表面で水粒子が発散するところと収束するところができる。発散するところにあるさざなみは小さくなり、収束するところのさざなみは大きくなる。さざなみの振幅の増減はσにはねかえる。いってみれば、さざなみがうねりの波面あるいは位相に印をつけ、SAR画像に波が映るというわけである。この他にも、波浪による水面傾斜とレーダ波の入射角が異なるためσに違いが生じたり、水粒子運動が山と谷で違うことがドップラー効果を生みσの変調をきたす。また、うねりの進行方向と風向あるいは衛星の飛行方向の関係もレーダ映像に影響を与える。

(1) 寄り回り波の観測

富山湾沿岸で古くから知られた「寄り回り波」は低気圧の通過後2、3日経過して天気が回復したころに現れる高波で、湾内の特定箇所で波高が一段と高くなるといわれる。図14.81993年3月17日から18日にかけて発生した寄り回り波を映した、ヨーロッパ宇宙連合が打ち上げた人工衛星ERS-1 の合成開口レーダSAR画像(6)である。ERS-1 SARは周波数5.3 GHz(Cバンド,波長5.66cm)の電波(VV偏波)を入射角23°で海面にあて、さざなみで散乱された電波から地上走査幅100km、分解能15m の高解像映像を取得するものである。ちなみに衛星ERSの高度は785kmである。衛星の観測に同期して実海面データを収集した。富山商船高等専門学校練習船<若潮丸>および富山県水産試験場観測船<はやつき>により、神通川沖3海里の海域において風向、風速、水温、塩分、流速、海面状況の観測を実施した。衛星が上空を通過した10:30の状況は晴れ、風力2で北から中位のやや高いうねりがあった。海面はいわゆるglassy calmの状態でところどころにさざなみが発生していた。伏木港と下新川郡田中海岸の波浪計はそれぞれ波高1.44m1.86m、周期 10.9s11.1sの波長の長い有義波を記録していた。このうねりは日本海で吹いた北西よりの強風域で発生し、はるばる富山湾まで伝播してきたものと推定される。その根拠は3月15日に発達した低気圧が本州南岸を通過して冬型の気圧配置になったため日本海では15日から17日にかけ強風が連吹したこと、この風で発生した波浪は日本海側北中部の波浪観測所における波高経時変化資料が示すように発達しながら北から南に伝播したことである。富山湾の奥深くに進入していく波浪を海上から見ていると、特定の場所に接近すると忽然と水面が盛りあがり、そのまま岸に向かって大きく砕ける一方で、全体としては波砕帯が波となって東の滑川方面から漸次西の射水方面に移りゆく動きが一昼夜以上に及ぶものであった。以上を総合して当時の波がいわゆる「寄り回り波」であると判断した。

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 図14.8 ERS-1 SAR画像 富山湾(1993.3.18

 

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 図14.9 ERS-1 SAR画像(海老江)

 

(2) SAR画像上の「寄り回り波」の特徴

「寄り回り波」を富山湾全体の現象と考えれば、富山湾のスケールで観測しないとその特徴は把握できない。富山湾全体を映した図14.8と湾奥部を拡大した図14.9により「寄り回り波」の特徴抽出を試みた。映像上の各種パターンを判読し特徴をまとめると、

(イ)二方向からの波が湾中央部で交差している様子がみられるが、その交角は

小さい。外から伝播してくる波浪の角分散や波源の移動などを考慮すると卓越波の波向はきわめて揃っている。

(ロ)北からくるうねり性の波は黒部川河口から東部沿岸に沿いまっすぐ南下

し、波峰線は海岸線にほぼ直交する。黒部川河口付近で水深が急降下するため波浪に対して海底の影響が働かないためと考えられる。

(ハ)北から進入するうねりの場合,大きな波群は先に滑川方面に到達し、その後

西に回りこむように伝播する。

(ニ)波が高くなる射水市海老江沖で波が屈折するのが認められる。富山湾奥は

弓なりの単調な海岸線が続くが、海底では岬(海脚)あり、入り江(海谷)ありのたいへん複雑な地形である。ふつう海岸は岬-入り江-岬-とつづき、岬では波が高く、入り江は波の静かな浜の所が多い。海老江の沖はちょうど海中の岬の部分にあたり、波が屈折してエネルギーが集中するため、波が高くなると考えられる。ほかにも複雑な海底地形を反映した波の変形模様がみられる。

(ホ)大陸棚がやや発達した湾西部において波峰線が海岸線と平行に変化する。

上記のように「寄り回り波」には災害をひきおこす厄介な面があるが、波と波に伴う流れは、沿岸水を撹拌し海藻はじめ海中生物に対して酸素や栄養塩類の供給を促進するとともに、浮泥を除去し海藻の掃除をするなど、沿岸の水中環境をリフレッシュする大切な働きのあることも認識する必要がある。

 

 

14.4 光学センサーによる水温の観測 

海面水温は大気・海洋相互作用を示す指標として重要であるので、人工衛星による観測研究がNOAAに搭載された熱赤外放射計を使用して精力的に進められてきた。ここではMOS1の可視・熱赤外放射計VTIRによる水温推定(5)について述べる。VTIRは大気の窓領域に11μm帯と12μm帯の2つのバンドをもつセンサーである。大気がこれらの放射にたいして完全に透明であれば衛星が観測する放射強度を輝度温度に換算するだけで海面温度が求められるが、水蒸気による吸収やエアロゾルによる散乱を受けるため補正が必要である。気象衛星で大気の鉛直温度構造を推定するときは海面温度がノイズになるが、海洋衛星で海面温度を推定するときは大気が邪魔になる。大気補正法としては赤外域の2バンドを利用するスプリット・ウィンド法が一般的である。次式は筆者らが求めた海面水温推定アルゴリズムである。

 TS =T0.62(-T)+(T-T0.4secSZA

ここでTは海面水温、T、T4 はバンド3、バンド4で得られた輝度温度、SZAは人工衛星の天頂距離である。この式の第2項目は大気中の水蒸気の効果を補正するもので、第3項目は大気の光路長(衛星と海面間に介在する大気の質量)に起因する誤差を補正するものである。式の導出は、2つの波長帯の吸収が水蒸気によることから放射伝達の方程式を T-T=a(T-T)+b と簡単化し、大気の透過率と分光放射輝度を算出するコンピュータ・プログラムLOWTRAN6によるシミュレーションをおこない最小自乗法で係数を決定して求めた。図14.10に本実験の推定値と実測値の比較を示す。推定式のバイアス誤差は0.32 Cで海面水温をやや低めに推定し、RMS誤差は僅かに劣化し1.01 Cであった。推定精度としてはVTIRの温度分解能が05 Kであることから海面水温の推定に十分適用できる結果と考えられる。

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 図14.10 海面水温推定アルゴリズムの精度

 

14.5 海洋リモートセンシングと現場観測

海洋リモートセンシングの最大の利点は広範囲の海を瞬時に観測できることである。100km四方の富山湾規模の波浪や海面水温の観測を数秒で行えることはまさに驚異的である。しかしこの方法は電磁波を利用して遥か上空から厚い大気の層を通して海洋を<はかる>技術であるために難しい問題も多くかかえている。たとえばレーダ波と海洋波浪との相互作用といった基礎的な物理過程の解明や可視・赤外線の大気補正の問題などである。このような問題を解決するためには現場の海上で観測を行うことが必要である。衛星から海の波をはかるときには波高、周期、波向などの海象要素(これをパラメータといおう)の他にさざなみの状況や海上風、海面水温を記録しておくと「衛星観測が何をはかっているか」を推定するとき役立つ。ところで衛星観測と海上観測の性格の違いを明確にしておきたい。ひとつの違いは伝統的な海上観測がピン・ポイントにおける観測を原則とするのに対して、衛星観測はセンサーの瞬時視野角内の積分値を観測する。したがって、海上観測はパラメータの局所的な精細観測に向いているが、パラメータの勾配を検出することは不得手である。これに対して衛星観測は点情報を平均し面情報として海をはかるので海面水温の絶対値測定は苦手であるが、規模の大きな現象の把握に向いている。海洋パラメータの空間変動についてさらに理解が進めば「海が渦で満ちている」ことを示す海の天気図が現われるであろう。波浪のSAR映像は広がりのある空間に存在した波浪パラメータの統計値が可視化されたものであるが、今後は内部波などこれまで見えにくかった現象がパターンとして可視化されることも多くなるだろう。両観測のもうひとつの違いは、海上観測が直接的で衛星観測が間接的であることである。大気補正における現場観測の重要性については前述したが、海面観測データは大気補正モデルを使った計算結果の検証に不可欠であるし、衛星データとの間に回帰的なあてはめをおこなえば簡易な大気補正手法となる。

衛星観測に同期した現場観測を実施する場合は目的を明確にして綿密な計画を立てる必要がある。海洋の現象は陸の事象と異なり時間的に変動するので決められた一定時間にシートルースを実施しなければならない。衛星運航センターに観測リクエストを出したら簡単に予定変更できないことを念頭において、とくに船の運航をともなう海上観測は人員の配備、観測機器の整備、予備試験、作業手順など十分に打ち合わせて準備をしなければならない。

現場観測の実効性を向上させるためには、現場における観測機器を衛星観測に対応させ放射観測を取り入れていく必要がある。たとえば衛星はまさに海面水温を観測しているが、現場ではいわゆるバルク水温を観測することが多い。やはり放射温度計で表皮水温を計測したいものである。クロロフイル観測についても海面での放射計による色測定がほしい。現場において手軽に使える放射計や輝度計の開発が待たれる。

前項において衛星観測データと現場観測データとの間にはもともとサンプリング時点からミスマッチがあると述べたが、さらに両データを比較するときに空間サンプリングの間隔が問題になる。できるだけ広域のデータ・ベースを得るには広域のトルース・データをとる必要がある。海洋リモートセンシングにおける現場観測の課題のひとつである。

リモートセンシング技術を海洋に適用するにはまだ時間が要るようであるが、その将来性は衆人が期待するところである。衛星から海を測るのに海での観測が必要であるというのもおかしな話であるが、いましばらくは当技術の発展のために現場海域におけるシートルース・データが必要とされるだろう。これも地球観測を大きく飛躍させる産みの苦しみと捉えたい。

 

まとめ

1 海の観測は海を知る最良の方法である。

2 海の流れを観測するにも種々の方法がある。

3 海洋と気候の関係を知るために地球規模のアルゴ計画やTAO/TRITON

観測網がある。

4 海洋観測手法の一つにリモートセンシングがある。

5 人工衛星搭載の合成開口レーダを用い富山湾全域のおける寄り回り

波の観測が行われ、SAR画像上の特徴が抽出された。

6 光学センサーVTIRの検証実験により海面水温の推定に十分な結果が

得られた。

7 海洋リモートセンシングの現状では現場観測(sea truth)が欠か

せない。

 

よくある質問

1 航海ではどのようなレーダを使用しているか

(答)レーダは闇の中でも霧の中でも物を見ることができる。他船や

陸岸などの距離と方向を知る舶用レーダにはXバンド(10GHz3cm)やSバンド(3GHz10cm)のマイクロ波が多く使われる。

2 海で漂流したらどうすればよいか

(答)必ず助かるという強い精神力をもつこと。沈没を避ける工夫をす

る、自分の位置を考え、岸に近づく努力をする、体温の低下を防ぎ、力の消耗を避ける、食料と水(海水1に真水2の水割りまで大丈夫)の使い方を考える、釣りや雨水を溜めて食料や飲料水の確保に努める、旗、音、煙などSOSの信号を発する等など、その場の状況を適切に判断して行動する。生物学的に強い人間力を信じ最後の1秒まで生きること。

3 ジャイロコンパスはなぜ北を指すのか

(答)ジャイロコンパスはひとつの軸の周りに高速で回転するコマを

2および第3軸のまわりに自由に旋回できるように、枠を用いてコマを重心で支えた装置で、コマの軸を直接支える枠には錘を吊るしてある。コマの軸が南北方向からそれると地球自転のため軸に偶力が働き常に南北を指すようになる。

ジャイロコンパスの指北原理については、山内恭彦「大学演習 力学」、裳華房、p.261 などを参照されたい。

 

参考文献

(1)気象庁編「海洋観測指針」日本気象協会、1988

(2)松平一昭、斉藤郁博、佐藤寛之、楠元達也著「富山湾の海流と

水温」富山商船高等専門学校卒業研究報告、1974

(3)石森繁樹著「油の漂流予測」富山商船高等専門学校公開シンポジ

ウム『ナホトカ号油流出事故に関連して』講演集、1997

(4)石森繁樹著「新若潮丸のADCPシステムについて」富山商船高等

専門学校研究集録第9号、1996

(5)Ishimori,S.,et al. Case Study of Earth Observation Using

MOS-1: (1)Color of Sea and Transparency,(2)SST,(3)Actual Vegetation,  The Third Symposium on MOS-1 Verification Program, EOC/NASDA, 1989

(6)Ishimori,S.,et al. On the Image of the "Yorimawari-nami"

by Synthetic Aperture Radar, Final Report of JERS-1/ERS-1 System Verification Program, MITI/NASDA, 1995

 

13回「富山湾―海に生きる人と暮らし」

石森繁樹

13.1 海に生きた人の歴史点描

日本海は古代から人や物や文化のやりとりがおこなわれる海の道であった。金関恕によれば縄文時代に大陸から玉製の耳飾、漆塗り土器、青銅製の小刀、鼎が伝わり、弥生時代には稲作技術をはじめさまざまな文化が海を越えて伝来した(1)

わが国が律令国家になる前は、7世紀初頭の遣隋使や630年から始まる遣唐使が盛んに唐の文物を移入した。8~9世紀には渤海使がたびたび日本海を往来した。わが国と親善関係を結ぶための外交折衝であったが、文化・文物の交流に寄与した。

日本最古の海事法規集「廻船式目」には13世紀初頭の主な港として三津七湊(さんしんしちそう)の名がある。三津は伊勢の安濃津、筑紫の博多津、泉州の堺津、七湊は越前の三国湊、加賀の本吉港、能登の輪島湊、越中の岩瀬湊、越後の今町湊、出羽の秋田湊、津軽の十三湊のことである。中世に栄えた港はほとんど日本海沿岸にあった。村井章介(2)は中世の北・海・道(北陸道に対比して)の豊かさについて、越中の放生津が鎌倉時代から北条氏ゆかりの海運業者が居を構える交易拠点であったこと、後醍醐の皇子宗良親王(13411344)や将軍足利義材(14931498)の長期滞在、加賀の宮腰(みやのこし)が野々市の守護所に近く経済の要所であったことなど興味ある論述をしている。

室町時代には明との間に勘合貿易があった。朝貢形式の貿易ではあったが、わが国の貨幣流通の発展を促した。京都極楽寺所蔵の絵巻は貿易船が筵帆(むしろぼ)や櫓漕(ろこ)ぎの船であることを伝えている。

豊臣時代には耐航性に優れた朱印船が海外に雄飛して南洋各地に日本人町をつくる勢いであったが、徳川期に入り海外渡航禁止(1635)や大船建造禁止の政策がうちだされると造船技術の発展は完全に阻害されてしまった。大船禁止は五百石以上の軍船、町船(商船)の建造と竜骨や甲板の設置を禁止し、一本マストで運航することを命じた。こうして江戸期を特徴付ける和船が誕生した。西回り航路の北前船(3)、(4)や東回り航路の菱垣廻船・樽廻船といった千石船がその代表である。

富山の北前船(バイ船やベンザイともいわれた)は江戸中期から明治10年代まで放生津、伏木、東岩瀬を拠点に活躍した。大阪から北海道に至る西回り航路が開拓されると、海商は米を北海道に運び、ニシンや昆布を買い入れる北海道交易と越中米を大阪に運び、帰路に砂糖、塩、薬種、綿などを輸入する上方交易に従事した。文化文政(化政)時代には越中における米の増産とニシン肥料の需要が相まって多くの富裕な海商(5)が生まれ、越中海運の黄金時代が出現した。放生津の宮林彦九郎、南島間作、六渡寺の朽木清兵衛、東岩瀬の馬場道久などの海商は富を蓄え、やがて和船から汽船の時代に入ると、汽船会社を設立して成功するものが現われた。この時代の海の香を知るよすがとして、次節では北前船の漂流譚に耳を傾けてみたい

開国を迫る外国勢に押され江戸幕府は1859年、長崎、横浜、函館を開港した。時代の推移とともに自由貿易が可能な港湾は増え、やがて伏木も特別輸出港となり1899年には開港場に指定された。伏木港の近代化は廻船問屋能登屋に生まれた藤井能三(5)の努力によるところが大である。沖繋(おきがかり)の汽船を着岸させるには庄川・小矢部川を分離改修し、その河口に築港する必要があった。この困難な工事は1913年に完成した。

富山湾は天然の生簀といわれる。とくに湾奥まで回遊するブリ、マグロ、イワシ、ホタルイカなどを漁獲する定置網が発達した。この漁法の成功の影には多くの先人の努力があった。たとえば、麻苧台網(まちょだいあみ)と瓢網(ふくべあみ)を考案した大西彦右衛門(1861(6)宮崎県から日高式鰤大敷網を移入した堀埜与右衛門(1907)。独自の改良を加えて上野式鰤大敷網を完成した上野八郎右衛門(1912)。これが原型となって越中式鰤大謀網(ぶりだいぼうあみ)が完成(1917)し、その後広く日本全域に普及した。漁場開拓では北洋漁業で越中衆が活躍した。こうした漁法の改良や新たな漁場進出により漁業の近代化が行われた。

 

13.2「三陸沖を巡航し長者丸次郎吉を偲ぶ」(7)

(元海上保安庁巡視船船長日合武雄氏の講演から)

日本の冬の海は荒れるので有名です。「いな妻や浪もてゆえる秋津島」(蕪村)は荒波に守られて外からは容易に近づき難いわが国の天与の地勢を詠ったものと解釈できます。演者は巡視船の船長としてしばらく日本周辺海域の海上保安業務に携わってきました。あるとき季節風が吹きつのり大時化となった三陸の海で一所懸命に捜索救助をしていました。そのとき、ふと郷土の船乗りのことが頭をよぎりました。長者丸の次郎吉です。

 

(イ)岩瀬湊における北前船の残光 

昔々、越中の西側を流れる射水川の河口付近の台地(現高岡市伏木)に越中の守として大伴家持が都より赴任してきました。在任5年の間に能登と越中の各地を巡視してその所々でたくさんの歌を詠みました。現在の富山市東岩瀬町の一帯ともいわれる岩瀬野で次の一首を残しています。

(いわ)瀬野(せの)に (あき)(はぎ)しのぎ 馬()めて 初鳥(はつと)(がり)だに せずや別れむ  (万葉集)

今年初めての鷹狩を岩瀬野で行うことにしたので、従者ともども馬を並べて射水川を渡り秋の萩の叢を踏み分け岩瀬野に来たが、肝心の獲物は萩に隠れて見当たらず、狩をしないで別れるのは残念だ。

それから千年余り経たのち岩瀬野を流れる神通川の川口より一隻のバイ船が家族に見送られ出帆してゆきました。

その船は長者丸という縁起の良い名を持つ六百五十石の米が積める船でした。

この時、富山藩の御廻米五百石を積んで大阪に向かいました。富山藩では安全のため積載量の八割程度に抑えております。約一ヶ月後の天保九年五月下旬に大阪に着き、富山御蔵役人へ御米を相渡し、同処で綿や砂糖などを買入れて併せて新潟行きの運賃荷物を積込んで出帆しました。同年七月に新潟へ廻り八月中旬に松前湊に着き、乗組み一同は上田屋忠右衛方に止宿しました。

この時の乗組員は次の十人でした。

船頭 富山木町浦      吉岡平四朗   五拾歳(ばかり)

(おや)() 射水郡長徳寺村    京屋八左衛門  四拾七歳

同  射水郡放生津町    片口屋八左衛門 五拾歳計

岡使(おかづかい)知工(ちく)ともいう事務会計係)

新川郡東岩瀬田地方  鍛冶屋太三郎  三拾七歳

(かた)(おもて) 婦負郡四方      善右衛門    四拾歳余

追廻(おいまわし) 射水郡放生津古新町 土合屋六兵衛  三拾一歳

同  射水郡放生津新町  片口屋七左衛門 二拾三歳

同  新川郡東岩瀬浦方   米田屋次郎吉  二拾六歳

(かしき)  婦負郡四方      五三郎     二拾五歳

同  射水郡放生津新町   中野屋金蔵   拾八歳

 

この船の持主は富山古寺町で薬種商を営む七代目能登屋兵右衛門で、薩摩藩入国を許された売薬薩摩組二十六人脚の一人でした。船頭の平四郎は元々の船乗りではなく渡海しながら品物を買付け売渡して利鞘を稼ぐために乗船していました。以前は佐渡や能登方面で売薬に従事した経験もあり、薬も重要な品物の一つでした。この松前で積荷の売却や薩摩向けコンブの買付けに従事しましたが、集荷に手間取り九月中旬漸くコンブ五百石を買付け松前函館で積み込むことになりました。ここで船頭が初めて太平洋経由東廻りを打ち明けました。ふつう北陸地方のバイ船(上方では北前船と呼びました)は年に1~2航海して旧暦九月も過ぎると海が荒れますので、日本海を南下し富山の船なら岩瀬あるいは放生津(新湊)で船仕舞いするか、加賀の船なら地元の河口か、天候次第で大阪まで足を延ばし木津川の支流で船仕舞いをしました。船仕舞いは船喰虫予防の為に陸揚げするか真水の処で繋留しました。

長者丸の船頭平四郎は船主である能登屋兵右衛門から岩瀬出航前に松前でコンブを積んだら東廻りで薩摩の油津か志布志に行くよう指示されていたようです。

 当時兵右衛門は薩摩組売薬免許人の一人で

 歩高拾歩(売上げの一割上納か)

 懸け場 国分 鋪根  〆弐ケ外城

となっております。懸け場とは行商区域のことで、鶴丸城(鹿児島城)を内城とし、領内に百二十三の外城(外郭)がありました。この頃から所謂コンブ・ルートが出来上がっており、北海道―薩摩―琉球―中国へと交易され中国から貴薬に用いる原料も売薬商人に手渡されていたものと思われます。越中売薬商人と薩摩藩との持ちつ持たれつの関係は明治維新まで続いていました。

天保九年は四月、閏四月と四月が二回あり松前出航は新暦十一月初めになりますが、懸け場に届ける配置薬や薩摩藩と約束のコンブのことを考えるとできるだけ早く鹿児島に近づきたいとの思いがあったようです。

「時規物語」(後述)によりますと、「放生津の八左衛門義東廻り(南部より江戸までを東廻り申候)渡海は望み申さずの由申し立て、ここにて越後の金六と代り候て、帰村致し候。金六は東廻り巧者ゆえ、道先(道先とは船案内の者を申候)にたのみ、是より一緒に乗組、戌九月下旬か十月上旬頃松前箱館へ着船いたし、ここにて昆布五、六百石目計積込、これより東廻り」とあります。この八左衛門は片口屋八左衛門で金六は親司に次いでの表方として乗組み、四十九歳、越後岩船郡早田村が在所です。北前船の絵馬で帆前の苫屋根の上に立って風見をしているのが表方です。

 

(ロ)長者丸および北前船につての簡潔な記述

富山商船高等専門学校名誉教授の吉田清三氏は著書「必読北陸の海難に学ぶ」の中で、長者丸の漂流について次のように述べています。

「天保九年(18384月西岩瀬浦(富山市八重津浜)を出帆した越中富山の北前船長者丸(650石積み、乗組員10人)が11月下旬に昆布、塩鮪などを満載して帰港の途中、現釜石市唐丹港沖にて大暴風雨に遭遇して難破した。帆柱は折れ,舵は流され、太平洋をさまよった。漂流中は不安と飢えと渇きにさいなまれ、三人が死亡した。表役は「死ぬ前に水を一杯だけ」と哀願し海中に投身した。飲料水、食料が底をつき、死のふちに立たされた漂流が六ヶ月も続き、天保104月アメリカの捕鯨船ジェームス・ローバー号に救助された。その後、捕鯨を手伝いながら9月にハワイの島に上陸、ハワイで船頭が死亡し、残る6人が約1年間英国船に乗って、今度は厳冬のカムチャッカ半島に送られる。さらに、ここで11ヶ月過ごし、天保12(1841)オホーツクを縦断してシベリヤのオホーツクに着く。ここで、また、1年を過ごして天保137月、今度はロシア船で北太平洋を逆戻りしてアラスカのシトカに送られる。ここで、ロシア・アメリカ商会の支配人の世話を受け、ひたすら、帰国の日を待つ。天保14年(18433月帰国が決まり、送別会を開いてもらったり、支配人から藩主への贈り物として掛け時計をもらったりして、ロシア船で出帆、5月にやっとエトロフ島の土を踏んだ。この後、北海道松前から江戸を経由して、ついに、10月郷里に帰ることが出来た。しかし、江戸で1人が病死したので、結局、乗組員のうち郷里に帰れたのは半分の5人で、遭難してから満5ヵ年近い歳月が流れた長いながい流浪の旅であった」

また、同書は北前船について次のように記述しています。

「北前船の定義となると、かねてより多くの研究者によって議論されており定着したものがない。よって、本稿では、瀬戸内海で用いられた弁才船の名称であって、北の海から来る船または、北の海を往来する船という意味であって、近年になって普及したものと解してほしい。北前船は以前のものより構造が頑丈で長さの割合には幅が広く,船首の反りが大きくなって凌波性もよくなった。また、艪に頼ることなく、もっぱら、操帆によるようになったので、漕ぎ手の減少による積載性の改良が出来、多量の荷物を積むので、一見、どんぐりのように見えた。さて、このように廻船の往来が頻繁となれば、当然、海難による損害も大きくなる」

 

(ハ)知られざる長者丸漂流譚

長者丸の漂流記録としては「蕃談」、「時規物語」、「漂流人次郎吉物語」の3つが主なものといえます。いずれも多くは次郎吉の記憶を頼りに構成されていますが、ここでは当岩瀬田地方(南の農耕地)出身の太三郎と浦方(北の浜辺)出身の次郎吉に光をあてその一端に触れてみます。

蕃談(ばんだん)

古賀謹一郎著。茶渓こと古賀は開明派の学者でのちに番所調所初代頭取となります。調所はその後開成学校(東大)に、洋学部は明治611月に分離して嵯峨寿安(岩瀬出身、明治4年日本人として初めてシベリヤ横断)が教えた東京外語となりました。

この「蕃談」はエトロフ島より江戸に護送された6人の取調べの記録ですが、主として次郎吉の異国における見聞をまとめたもので異国人の人情深さや古賀自身の開国への思いの一端を伺うことができます。

船頭平四郎は「サニイツ」(ハワイ諸島)の「ワホ」(オアフ島)で病死しますが、蕃談では次のように書いてあります。「サンイチ逗留中ニ船頭平四郎病死シテ其処ニ葬ル。土人懇切ナル事限リナシ。葬ニ会シタルモノ老幼男女凡ソ三百人ハカリ也。イツレモ発声シテ啼泣ス。葬ノ様子ハ仏教カ何角カ唱ル者前ニ往キ皆々夫々従ヒ行ク。葬地ニ至リ三百人ハカリノ者銘々ニ鍬ヲ執テ土ヲ棺上ニ掛ルナリ。棺ハ十分丁寧ニスレハ、石ニテ臥棺ト為シ、頭脳手足ヲ夫々ニ納ルル様ニ致シアルナリ。平四郎ヲ葬ルハ事急ニテ木棺也。其製作ハ前ニ云フ如シ。既ニ葬テ墓碣(特立セル立石デ円形ノモノヲ碣トシ方形ノモノハ碑ト云フ)ニ石ハ何レ<アレカイ>-アメリカのことか―ヨリ取寄セ、立派ニ致ス也。今ハ此木ニテ済スヘシトテ、表木ノ如キモノニ平四郎ノ本国実名等委細書付ク。書付ハ次郎吉認タリ」。

それに続いてつぎのような記述もあります。「サンイチニテ風説ニテ聞ケハ、広東ハ只今オッペンノ一件ニテイキリスト合戦(阿片戦争か)最中ニテ、只今広東ニ往テハ混雑シテ日本ニ帰ル事ニハトテモ至ルマシトナリ。天保十一年庚子七月頃マテ、サンイチニ逗留シ、コレヨリイキリスノ商船ニ乗リ、カムシヤツカニ赴ク。コレハ広東ヨリ日本ニカエルル事不便ナルヘキ故ニ、オロシアヨリ日本ニ帰ヘキ評議ニナリタルナリ」。

時規(とけい)物語」(時計物語)

江戸に到着した漂民6人は鎖国の禁を破ったとして小石川春日町にある加賀藩領水橋出身の宿屋業、大黒屋長右衛門方に軟禁お預けとなり、3年間そのまま留め置かれました。その間一人が死亡し、弘化310月に条件つきで一時帰国が許され、家族と対面しますが、翌年5月再び江戸に出頭するよう命ぜられました。1年後一件落着(エトロフ島フルベツ上陸の際、松前藩のエトロフを守備する藩士の異国船対応が幕令に違反しており、漂民の供述がその時の藩士の行動を庇ったものであるとの疑いがもたれました)しますが、この間江戸でまた一人死亡しました。

嘉永元年10月、最終的に帰郷できたのは岩瀬の太三郎、次郎吉、放生津の六兵衛、金蔵の4人でした。この4人が後に加賀藩の金沢に時計を差し出して、異国の様子を語ります。加賀藩が当時の俊才を集めこれを記録させ、修理した時計とともに藩主に提出したものが本書です。大黒屋光太夫の「北槎聞略」以上の記録と称されるものですが、惜しむらくは前田家尊経閣文庫に永い間眠り続けていました。さいわい昭和43年、池田皓氏の解読編集になる「日本庶民生活史料集成」第5巻、「漂流」章(三一書房)が公刊され、私たちも読むことができるようになりました。本書には「時規物語」だけでなく「蕃談」、「北槎聞略」、「船長日記」等、当時の漂流の記録が集成されており、手元におきたい一冊です。なおこの時規(時計)は、その後富山藩に譲られましたが現在何処にあるのか不明です。

「当初に遊女は居不申ず由にて、左様の場所も見受不申候。隠売婦とか申者有之由に候へ共、是は夫ある女にて、渡世のため、夫も承知にて、おのれの家へ人寄せいたし候へども、外へ知れ候ては、掟に背き候様子にて家入口に夫番いたし候て、外の者入来候を気遣申す由に候」(ハワイで)、「六兵衛、次郎吉、女湯入の日を心づかず罷越、湯に入り候処、女ども多く罷在、六兵衛等の様子を見、小指のもとへ拇の先をあて、是を互に見候て笑申候。何故か合点まえらず候処、後に承り候へば、日本人の陽物小さきと笑いたる由に候」(カムチャッカで)など男女にまつわる記事も散見されます。

漂流人次郎吉物語

原本は高岡市立中央図書館蔵の和本(古文書体で書かれている)であるが、昭和48年富山大学教授高瀬重雄博士によって解読出版されたものです。「時規物語」の後、船主の在所富山藩に提出された顛末書ではないか、と思われますが前掲の二書とくらべ飾付けがなく研究者の間ではこの書のほうが本音を述べたものと評価されています。

つぎは雪国育ちの次郎吉が関心をもったシトカの生活のひとこまです。

「又同所にて雪遊びとして、家の棟より板を敷き、板の上へ雪をあげ、踏付けてつらつらにいたし、男女とも、靴をはき板に乗り、棟より男女とも替り替りに下りるに、上手の者は真っ直ぐにすらすらと下り、下手の者は横へ行き、女などは尻まで出し、おなさけ所出候ても隠す事不相成、大笑い也」

以上3冊の長者丸の記録のほかに忘れてならないのは井伏鱒二の有名な小説「漂民宇三郎」です。この小説は素老生手録本「異国物語」を参考にしたとありますが流石に現代作家の手になるだけあって一気に読める本です。主人公の宇三郎は前書に乗組んではいないので、仮想の人物か次郎吉ではないかとの説もありますが、私は長者丸の11番目に乗組んだ実在の人物のように想われてなりません。これに関連して当地の歴史研究の第一人者である道正弘氏は東岩瀬郷土史会会報47号のなかで次の旨の記述をしています。

「これら漂民を東岩瀬では内緒で河原坊主と呼んでいる。子供のころ祖母から河淵に行ってはいけない、河原坊主に尻を抜かれると脅かされたものであるが、どうも河原は唐=外国=河童に通じ怖く忌まわしい存在だったのかもしれない。あの時代こうした風土で育った宇三郎はシトカから生き残りの6人と一緒に帰郷の船に乗ったものの航海の途中で心が変わり、ハワイに残してきた広東人の恋人オレインのことや、郷に帰っても河原坊主にされたり、義兄の投身を親に告げる辛さを思った。そこで彼は仲間と船長の許しを得て船室に隠れエトロフで上陸せず、ハワイに戻った。帰郷を果たした6人は、宇三郎は越後の金六の舎弟であり松前で乗船したことでもあるし、このことを絶対に口外しないと堅い約束をした」。こうした北前のロマンの風をうけて「漂民宇三郎」を読むと、なお一層の興味がそそられるものです。

また道正氏は昭和初年東岩瀬町役場で保存されていた古文書の中から、太三郎と次郎吉連名の書類に目を留め、その原文と解読文を同会報に掲載しました。この書類は、両人が江戸から一時帰郷し再度呼び出されて江戸に向かうことになりましたが、その路銀に困り肝煎より御改作奉行に工面を願い出たときの書面と思われるものです。お金のことには幕府もなかなかけちで路銀の面倒までは見てくれなかったようです。

 

13.3 富山の港

富山湾は能登半島に深く抱かれた海域であるため古くから漁業や天然の良港として使われてきた。多くの河川が流入する海岸には、河口や潟を利用して漁港や貿易港が築かれている。

湾奥には歴史的に由緒ある伏木富山港が存在し、1986年に国際貿易上の特定重要港湾に指定された。同港は伏木地区の伏木港、富山地区の富山港、新湊地区の富山新港の3つの港から成る。万葉の時代から利用され古い歴史をもつ伏木港は小矢部川の河口港として栄えてきたが、最近は万葉埠頭を築造し、国際貿易港としての機能を向上させた。富山港は北前船時代から賑わいをみせた神通川の河口港で沖合に28万トンのタンカー荷役用の施設を有し原油の荷揚げを行っている(2010年現在作業休止状態)。富山新港は新産業都市の指定を受けて1968年に誕生した新しい港である。放生津潟を利用した掘込港湾で臨海工業地帯の中核として発展している。現在はコンテナー輸送時代に対応した多目的国際ターミナルや旅客船バースが整備されている。伏木富山港が取り扱う主な貨物は原油、石炭などのエネルギー資源、コンテナー、スクラップ、アルミのインゴット、木材チップ、原木、中古車などである。

図1に富山新港のコンテナー・ヤードを示す。コンテナーの能率的な荷役にはガントリー・クレーン(図2)が不可欠であるが、これは1時間に30個のコンテナーを積みおろしできる

 

第13回 図1-2.jpg

図1 富山新港のコンテナー・ヤード     図2 ガントリー・クレーン

 コンテナー輸送の出現により港湾労働者を10分の1以下に削減し、取り扱い貨物量を100倍以上の速さで処理できるようになった。現在は1隻あたり60008000台のコンテナーを積む大型船が就航しているが、残念ながら富山はその基幹航路上にはない。日本海沿岸のコンテナー定期航路の中心(ハブ港)は韓国の釜山港で、伏木富山港(フィーダー港)は小型コンテナ船で釜山を経由し北米や欧州などの主要港と結ばれている。

伏木外港の建設工事は1990年に開始された。海域に北防波堤(1500m)を築き、地先海面を小矢部川河口の浚渫土砂などで埋め立てる大工事である。1997年には-10m岸壁1バース(埠頭)と-7.5m岸壁1バースが、2006年には-14m岸壁1バースが完工し、万葉埠頭として共用が開始された。整備工事は現在も進められているが、新たに出現した港内には富山湾特有のうねりが侵入する事態が発生したり、築港という大規模海洋工事が漁業環境に影響したり、在来の内港部から外港への機能移転に伴う新たな町づくりなど種々の問題も生まれている。

港湾法:

この法律は、交通の発達及び国土の適正な利用と均衡ある発展に資するため、環境の保全に配慮しつつ、港湾の秩序ある整備と適正な運営を図るとともに、航路を開発し、及び保全することを目的とする

富山県には16の漁港が存在し、定置網漁業を主とする沿岸漁業とイカ釣りやカニかご漁業などの沖合漁業の拠点になっている。漁港はつぎの法律に基づいて整備が進められている。

漁港漁場整備法:

この法律は、水産業の健全な発展及びこれによる水産物の供給の安全を図るため、環境との調和に配慮しつつ、漁業・漁場整備事業を総合的かつ計画的に推進し、及び漁港の維持管理を適正にし、もって国民生活の安定及び国民経済の発展に寄与し、あわせて豊かで住みよい漁村の振興に資することを目的とする

 

13.4 船のはなし

船を見に伏木富山港を訪ねた(2008年)。富山港(富山地区、岩瀬)でロシアの自動車専用船が中古車を積み込んでいた。その隣では中国向けの船が大量のスクラップを積んで出航しようとしている。港の沖を見ると大型の黄色いブイで重油を満載した10万トンのタンカーが荷役を始めた。四方漁港では漁船が疲れた船体を休めている。富山新港(新湊地区)にはチップ専用船、石炭専用船、コンテナー船が入港中だ。浚渫船やクレーン船など作業船もいる。ヨット・ハーバーを覗くと大小様々のクルーザー、ヨット、モーターボートが静かに整然と並んでいる。商船高専の練習船の真っ白い船体が目を引く。海王丸パークに行くとボランテアが帆船海王丸の展帆をしており、対岸には富山県の実習船がみえる。伏木港(伏木地区、万葉埠頭)に行ってみる。いつものように海上保安庁の巡視船が係船していた。今日はたまたま豪華客船「飛鳥」も寄航しており、その巨体に圧倒された。

船はどれも美しい。とくに歴史を経て洗練された帆船や客船は、優れた技術と芸術の建造物(naval architecture)だけあり、バランスがとれて美しく、そのスマートな容姿には高い文化の香りを感じる。

大洋を渡る外航船は、電気をつくることから始めすべてを自分でまかわなければならない。そのためいろいろな設備をもっているが、ここでは富山高専の練習船「若潮丸」搭載の航海計器と海洋観測機器について主なものを紹介する。

(航海計器)

測深儀:海底の深さを測る装置。船底から発射された超音波が海底で反射し

戻る時間を距離に換算する。昔はロープを垂らして測った。

レーダ:マイクロ波を発射して物体からの反射波をブラウン管上に映像化す

る装置。夜間や霧中の航海で使う。

GPS:人工衛星を使った位置決めシステム。以前は太陽や星の高度を計っ

て海上の位置を決めた。

ジャイロスコープ:方位を測る機器。高速で回転するコマの指北作用を利用

する。船には磁気コンパスも常備する。

オートパイロット:指定した進路に船を導く自動装置。以前は人が梶をとっ

ていた。

(海洋観測装置) 

CTD : 海水の塩分、水温、水深を計測する装置。ウィンチで2000mまで機器

を投下して連続計測する。

ADCP: 海流観測機器。超音波を発射して水中のプランクトンや懸濁粒子によ

る散乱波から海流を計測する。

波高計:船首から超音波を海面に発射して波高を測る装置。

 

操船者から見た伏木富山港

伏木富山港は、雪による視界の制限、河川水の流出による港口付近の流れの影響、航路近傍の土砂の堆積、北風による波浪や寄り回り波などのうねりの影響、あいがめに象徴される急進な海底地形と定置網の設置からくる錨地確保の難しさ等、地域の特性を反映した問題点が少なくない。港湾が安全でしかも便利な経済的物流拠点として機能するためには錨地の確保と港湾の十分な水深確保は必須な要件である。漁業と海運、港湾整備と環境、魅力ある水辺空間の創出など海域を総合的に利活用していくためには解決を要する幾多の問題があるが、この点に関連してなすべきことは、県民による横断的な議論の場を増やし、県民のための「みなとづくり」にもっと知恵をだしていくことだと考える。ぜひ安全で魅力ある港をつくり環日本海経済圏の要港として発展したいものである。 (伏木水先人会会長 越前精一氏「富山湾に学ぶ会」資料より)

 

まとめ

1 日本海は古くから人や文物が行ききする海の道であった。

2 富山の北前船は江戸中期から明治10年代にかけて活躍した。

3 長者丸の漂流譚に次郎吉の人間力をみることができる。

4 伏木富山港は特定重要港湾として発展している。

5 富山県には16の漁港が存在し水産業の拠点になっている。

6 用途によりさまざまな船が存在して富山の港に出入りしている。

7 GPSやレーダは航海技術から発展したものである。

 

よくある質問

① 埋没林と海底林の違いは何か

(答)魚津の埋没林に対して後から見つかった吉原海岸沖の樹根群を海底林と

いって区別している。呼称の違いには、発見された場所、樹種、年代など地学的遺物としての相違が反映されている。

② 蜃気楼は富山以外でも見られるか

(答)多くの場所で見られる。砂漠の蜃気楼が有名であるが、ロシアの船員に

よると北極海に面したチクシー港(材木積出港)などでも見られるという。

③ 富山で観測された高波の最大は何mか

(答)2008年の高波では伏木地区で9.9mを記録した。

 

参考文献

(1)金関恕著「日本海」、第9回「大学と科学」公開シンポジウム予稿集

-アジアの古代文明を探る-歴史と水の流れ-、1994

(2)村井章介著「中世の北"海"道」、日本海学の新世紀2-還流する文化と美

角川書店、2002

(3)司馬遼太郎著「菜の花の沖」文春文庫、1987

(4)南原幹雄著「銭五の海」学陽書房、2005

(5)宮口とし廸監修「ビジュアル富山百科」富山新聞社、1994

(6)富山新聞連載記事「富山湾に光を」1981

(7)日合武雄著「三陸沖を巡航して長者丸次郎吉を偲ぶ」、海フェスタとやま

セミナ「海・船・人」資料、2006

 

12回「水中カメラから見つめる富山湾」

大田希生(水中カメラマン)

12.1 春の水中景観

① 海中林が発達する季節。海中林は海藻が森のように繁茂している

場所。生物が多く、海のゆりかごとも呼ばれる。富山湾西部の灘浦海岸沖には高さ10メートルに達するホンダワラの仲間がジャングルのような海中林をつくる。メバル、キヌバリ、クロダイ、カミクラゲ、オワンクラゲの生態を映像で観察する。

② ホタルイカの身投げ。新湊から魚津にかけての海岸に深夜から

朝方にかけてホタルイカが打ち上がる。

③ 赤潮の発生。ヤコウチュウというプランクトンが大発生する

ため。

④ 海底湧水量が増加する。東部の海底には伏流水の湧出する場所が

多いが、とくに5月頃は1年で一番湧水量が多い。

⑤ アマモの開花。アマモは陸上植物の仲間。

⑥ ワカメ漁。朝日町沖のワカメ漁の様子。

 

12.2 夏の水中景観

 ① 虻が島周辺の光景。夏季のみ遊覧船が就航する。 

イワガニ、カエルウオ、フグの仲間、コケギンポ、チャガラ、メジナ、キヌバリ、ホンベラ、オハグロベラ、グビジンイソギンチャク、アカヒトデ、シロウミウシ、アオウミウシ、リュウモンイロウミウシ、キンセンウミウシ、タマミルウミウシ、ハクセンミノウミウシ、ヒブサミノウミウシ、フジイロウミウシの生態を動画で紹介する。

 ② 緑色になる海水。水温が上昇するとともにプランクトンが増加し

海中の透明度は低く緑色になる。

ミズクラゲ、カサゴ、スズメダイ、ツメタガイ、スナチャワン、アンドンクラゲの生態を動画で見る。

 ③ 砂地の生き物たち。昼間は隠れているが、夜になると活発に動き

回る生き物たち。

タイワンガザミ、シマウシノシタ、クサフグ、オニオコゼ、メリベウミウシ、ミミイカの生活を映像で見る。

 

12.3 秋の水中景観

 ① 回遊魚が岸近くで多く見られる。秋は海水の透明度が高くなり、

魚も増えるためダイビングのベストシーズン。

アカカマス、マアジ、メジナ、イシダイ、メバル、スズメダイ、ヒメジ、アオリイカ  コブダイ、アミメハギ、カワハギ、フクラギ、ヨウジウオ、マダイの生態を動画で見る。

 ② 暖海性の生き物が回遊してくる。遊泳力の弱い生き物が対馬暖流

に乗り日本海を北上し富山湾には秋から冬にかけて入ってくる。冬になり水温が下がると死んでしまうため死滅回遊魚とよばれる。

ソラスズメダイ、フエダイの仲間、キンチャクダイ、エチゼンクラゲの生態を動画で観察する。

 

12.4 冬の水中景観

 ① 透明度が最も高くなる。水温が下がるとともにプランクトンが

少なくなり透明度が高くなる。ホンダワラの仲間ではアカモクが海中林をつくる。

アカモク、アイナメ、アユの幼魚、ハタハタの生態を動画で見る。

 ② 最も水温が下がる2月下旬から4月上旬にだけ現れる生き物がい

る。ミズダコ、ヤリイカ、ニジカジカの生態を映像で観察する。

 

12.5 海中の環境変化と水中環境改善の取り組み

① 雨晴沖のテングサ場の時系列変化。テングサの好漁場である

高岡市雨晴沖の近年の状況を紹介する。

② 海底ゴミの映像を見る。

③ 藻場造成と取り組むNPO法人「富山湾を愛する会」の海藻増殖

実験を紹介する。

 

12.6 「まとめ」にかえて

水中カメラで富山湾を見ていると「豊穣の海とはなにか」と考えさせられ、海底湧水とそこの生物群集に出会うたびに「富山湾の生きものにも私たちにもおなじ立山の水が流れている」と海の仲間としての愛(いと)おしさを強く感じる。 

以上

 

 

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11回「富山湾―自然の恵みと神秘Ⅱ」

石森繁樹

11.1 富山湾で見られる特異な事象

(1) 蜃気楼

風が弱く穏やかな春先の富山湾にはときおり蜃気楼が現れる(図11.1)。これは海上の船や対岸の建物が伸縮したり上下逆さまに重なって見える幻に似た光景で、魚津の蜃気楼が有名である。時期的には4月から6月によく出現する。光は媒質の屈折率によって速度が異なる(光速は屈折率に逆比例し、その屈折率は密度に比例する)。光は1点から他の点まで最小の時間を要する径路を通って進む(フェルマーの原理)ので、媒質により光の速度が違うと不思議な見え方になることがある。たとえば、水平線に沈む太陽を見ているとき、じつは太陽はすでに沈んでしまって本来そこには存在しないのである。これは真空と地球大気の屈折率の違いに由来する。蜃気楼も本質的には、これと同じ光学現象である。海面付近の空気が冷たく、その上に暖かい空気が重なった下密上疎の成層状態では、上に行くほど光は速く進む。この場合、水平線より遠くにあり本来見えないはずの物体が浮き上がって見える。この蜃気楼は実際より高い位置に浮上したり、伸び上がって見えるので浮上蜃気楼とか上方蜃気楼と呼ばれている。

富山湾に蜃気楼が現れやすい理由としては、春の冷たい雪解け水が流れ込むこと、富山湾が高い山に囲まれた静かな海であること、春先にフェーン気味の暖かい南風が吹くこと、対岸の景色が見渡せることなどが考えられる。

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 11.1 蜃気楼(吉村博儀氏提供)

 

(2) 埋没林と海底林

魚津市の海岸付近で約1500年前の杉の樹根が発見された(1930)。これを埋没林という。魚津埋没林博物館には樹齢500年前後の杉の樹根9株と幹2本が保存されている。1995年に国の特別天然記念物に指定された。

また、黒部扇状地の入善沖では水深2040mの海底から約800010000年前のハンノキやヤナギの幹の根元部分が数多く発見された(1980)。佇立する大樹の幹や朽ちかけた樹根群を水中に見る景観はまさに幻想的である( 11.2 )。この海底林(1)は当時の樹木が黒部川の洪水堆積物で埋もれたあと海流や波により埋積土砂が除かれて姿を現したものと考えられる。海底林は大陸棚が氷河時代に植物が生い茂る陸であったことや温暖化に伴い海水準が上昇したことを示す、気候変動の身近な証拠として貴重な存在である。

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 図11.2 入善沖の海底林

 

(3) 寄り回り波

富山湾の「寄り回り波」は日本海の代表的なうねりとして知られている。北東に開いた湾の形と海底地形が関係して特定の海岸で高波となり、冬の凪いだ日に突如来襲する。うねりの発生源は北海道の西方海上といわれ、周期の長いのが特徴である。図11.3は人工衛星の搭載レーダが800km上空から撮影した「寄り回り波」の映像(2)である。画像は、うねりが北北東ないし北東から富山湾に進入し、黒部の海岸を真っ直ぐ南下し滑川に達したあと漸次西へ回りこむこと、大陸棚がやや発達した湾西部では波峰線が海岸線と平行になること、射水市海老江沖の特異な海底地形で波が屈折すること、などを教えている。衛星飛行と同期して実施した海上および陸上の観測によれば、波の周期は11秒、波長は190mであった。画像からは北から入ってくるうねりが黒部、魚津の海岸を南下して滑川沿岸につきあたり、富山から射水の方へ移動するように読めるがこれは寄り回り波という名前の由来を考えるヒントになるかもしれない。波浪は一般に海面の上下運動が注目されるが、港内では水平方向の水の動きも重要である。寄り回り波のように波長の長い波が港に入ると津波と似た性質をもつようになり、船の係船索を切断したり、錨を引きずるので注意が必要である。

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 図11.3 寄り回り波の衛星画像

   (ERS SAR 19930318)    

                  

富山湾は2008224日の高波(3)により死傷者18人を含む大きな災害にみまわれた。県東部の入善町芦崎地区では8.0mの高波が海岸堤防(DL+5.7m)を越えて浸水し、堤防に設けられた通行用門扉が破壊された。緩傾斜護岸の損壊、ブロック積みの離岸堤や潜堤の水没・崩壊・飛散・移動など被害は広範に及んだ。波高9.9m、周期16sの高波が記録された県西部では伏木港の北防波堤(長さ15mのケーソンを横一列に100個並べた構造物、全長1500m)が800mにわたり被災した。波で動いた2500トンのケーソンが堤列から飛び出したり(図11.4)、消波ブロックがケーソンを飛び越える際についた痕跡が今も残っている。

今回の高波は「寄り回り波」に、北西風による風浪と連続的に押し寄せた波により海岸水位が上昇するなどの要因が加わり通常より更に波高が増したものと考えられる。

「寄り回り波」にはこのように災害をひきおこす厄介な面があるが、波と波に伴う流れは、沿岸水を撹拌し海藻はじめ海中生物に対して酸素や栄養塩類の供給を促進するとともに、浮泥を除去したり、海藻の掃除をするなど、沿岸の水中環境をリフレッシュする大切な働きのあることも認識する必要がある。

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 図11.4被災した北防波堤

 

(4) 海岸侵食

白砂青松の自然海岸が少なくなった。富山湾もその例にもれず海岸沿いには防波堤が築かれ、外側には離岸堤が続いている。この光景は、海岸侵食という自然の猛威に立ち向かう人間の営みを物語るものである。富山湾では黒部扇状地海岸や宮崎海岸の海岸浸食が著しく、汀線が40年間に20mないし90m後退したところがある。また、下新川海岸における突堤建設の結果、東側に土砂が堆積し西側で著しく侵食が進行した例がある(11.5)。海岸侵食の直接的な原因は波浪や海浜流などの営力であろうが、海岸を構成する物質の性質と背後地から運ばれる物質量の多寡に左右されるから供給土砂を減少させる砂防工事やダム建設など人為的影響も無視できない。富山湾の海岸侵食が顕著な理由のひとつには、大陸棚が狭く、海底谷の谷頭が河口のすぐ先まで迫るという特殊な地形がある。河川から排出される土砂は大陸棚に堆積するのがふつうであるが、富山湾の場合は深海に直送される(4)ようである。

5) オオグチボヤ

深海に棲む原索動物のホヤの仲間である。ホヤは昭和天皇が研究対象とされたとか、原索動物なので進化論的に人の先祖にあたるとか、ホヤが有するバナジュウム濃縮能力が注目されたり、酒の肴として珍重されるなど何かと話題の多い生き物である。

2001年に富山湾七尾沖でオオグチボヤのコロニーが見つかった(5)。これまでモントレー湾(米)、チリー沖、南極、相模湾で見つかっていたが、コロニー(群集)の発見は富山湾が初めてという。図11.6のようにマスコット向きの愛嬌のある姿をしている。その後の調査により、オオグチボヤは水深が約300m以下の海底斜面にある岩盤や沈木、空き缶などに付着して群生していること、七尾以外でも氷見、新湊,魚津沖に広く分布することなどが明らかにされた。オオグチボヤは大きな口をあけ一体何を食べて生きているのだろうか、いままさにその謎解きが始まろうとしている。

第11回 図5-6jpg.jpg                                                          

 図11.5 宮崎漁港                   図11.6 オオグチボヤ       

      (海上保安庁提供)                     (精密模型、体長10cm) 

       竹内章教授(富大)提供

 

11.2 「富山湾に学ぶ会」

本会は富山湾の面白さあるいは学問的に興味をひく話題を中心に海を語る勉強会として出発した。発足は国連海洋法条約が採択された翌年1983年である。当初は富山湾の調査・研究から得られた話題が中心であったが、現在は富山湾だけではなく日本海の環境や地学的な問題など多方面からテーマを集めて議論をしている。勉強会は毎月1回のペースで、誰もが気軽に参加でき、楽しい意見交換の場となる、をモットーに続けている。本会は20106月現在で163回を数えた。

「富山湾に学ぶ会」で発表された講演テーマの一部を列挙してみる。富山湾に関連したさまざまな話題があることを知ってもらえれば幸いである。

富山湾の地形と底質

富山湾の海況

富山湾における竜巻と冬雷

あいがめの生物たち

富山湾東方の深海サンゴ

富山湾のサケについて

富山湾の深海生物-なぜいま深海生物か-

富山湾のエビ(クルマエビを中心として)

富山湾深層水の物理的環境について

富山湾近海における潜水活動と潜水機器について

合成開口レーダ画像にみる富山湾の沿岸波浪

富山湾のアマエビ

富山湾の海水の流れ-暖流と寒流はぶつからない-

海王丸永久保存の意義を考える-海洋文化の生涯教育と地域

おこしの核として-

中新世の富山湾古環境-立山町より産出する化石とともに-

富山湾のホタルイカ資源

富山湾産アユの生活史

富山湾の深層水

富山湾のブリ

富山湾の波と土

富山湾の海藻

ベニズワイを飼育してみて

富山県の外国産水生動物

富山の蒲鉾

海水からの有価物の製造-水酸化マグネシウムの採取について-

海水からの有価物の製造-臭素の採取について-

富山湾の海底地震計観測

衛星観測による重油流出状況把握の試み

地球温暖化と富山

日本海重油流出事故の被害にあった海鳥類とその寄生虫

深層水を使ったサクラマスの飼育

漁業制度からみた富山湾

素人の夢、深海の夢

しんかい2000で見たベニズワイガニ

海難防止論-21世紀への課題-

ホタルイカと光-光環境と産卵行動-

黒部川河口周辺の海底ビデオ映像

ブラックバスをとりあげる

富山県淡水二枚貝の現状

海洋汚染の人工衛星による監視

富山湾の海底環境とマクロベントス

海洋深層水および濃縮水の温浴による健康作用

「神秘の海・富山湾」を取材して

富山湾圏の構想について

富山湾を特徴づける生き物は?-オオグチボヤやアバタカワリギンチャク-ほか」

富山湾の海上における鯨類の目撃記録

富山湾とその周辺の珪藻化石あれこれ

富山湾のアユの話

鮮新世三田層雑感

伏木富山港の水先

子ぶり石に新しい仲間-ノジュールの成因に向けて-

富山で生まれた日本海学

海洋深層水の運動浴による健康増進効果について

能登半島の岩のり

帆船海王丸のボラテア20年

富山湾でのCTDADCP調査報告

* 富山湾の海中の四季

本会は毎月第3土曜日(1416時)、富山駅前の市民学習センタ

CiCビル3階)で開催。会費100円。

 

まとめ

1 富山県魚津市は蜃気楼で有名である。遠くの見えないはずの景色が見えた

りする。

2 数千年前の森林の残存物を埋没林(魚津市)や海底林(入善沖)で観察でき

る。

3 日本海のうねりとして「寄り回り波」がある。

4 富山湾の海岸線は砂質海岸が多く自然海岸が少なくなった。

5 富山湾にもときに高波被害が発生する。

6 富山湾で最近オオグチボヤのコロニーが発見された。

 

よくある質問

① ホタルイカ、ブリ、シロエビの漁獲高(トン/ 年)はどれくらいか

(答)ホタルイカ2098 、ブリ2012、シロエビ490。 ここでブリの数値はフクラギ

1691、ブリ240、ガンド81の合計とした(富山県水産試験場の平年漁獲量19881997調査から作成)。

② 水深が急に深くなることで何か影響はあるのか

(答)海水の湧昇のような上下運動や内部潮汐に伴う複雑な運動が起きやすく、

生物にとっては深いところから浅所へ簡単に辿り着ける魅力的な場所なのではないか、と思考する。

③ シロエビの長期生態展示ができるようになったと聞くが、改善点は何か

(答)生息環境(水温、照度、水流など)を水槽内に再現することおよび餌料の

選択や餌つけで試行的な改善が行われた。近畿大学水産研究所はシロエビの生態観察(甲殻類の脱皮現象など)や卵から孵化させた稚仔の育成に向けた実験研究を続行している。

④ オオグチボヤの根元の部分はどうなっているか

(答)ホヤの幼生は一時期プランクトン生活をするが、やがて変態して海藻の

根のような付着器(根元の部分)を生じ岩などに固着した生活をはじめる。

⑤ ホタルイカは富山湾以外どこに生息しているか

(答)日本海、相模湾、駿河湾、房総沖など広範に生息する。

⑥ なぜ出世魚は成長とともに名前が変わるのか

(答)姿や大きさの違う魚であれば名前が異なって当然であろう。ブリなどは

1年魚、2年魚でひとまわりもふたまわりも身体が大きく立派に成長する縁起魚だから武士が出世して改名したように、異なる名で呼ばれるようになったものと想う。「ブリハマチもとはイナダの出世魚(しゅっせうお)」

⑦ 富山は鱒寿司が有名だが、鮭と鱒の違いはあるのか

(答)サケ科の魚を種によってサケとマスと呼んでいるだけである(6)。サケ科の

魚にはシロザケ(新巻としてなじむ)、ベニザケ、ギンザケ、サクラマス、ニジマス、ヒメマスなど世界で70種ほどが知られている。サケ科の魚には降海型(川で生まれ海に下って成長したあと母川に戻り産卵する)と陸封型(一生を川で過ごす)がある。降海型のサクラマスの陸封型はヤマメであり、降海型のベニザケの陸封型はヒメマスである。富山の鱒寿司には神通川を遡上するサクラマスが使われたが、現在は北海道産や外国産の鱒類も使用されている。

 

参考文献

(1)藤井昭二、奈須紀幸編著『海底林』東京大学出版会、1988

(2)Ishimori,S. et al. On the Image of the "Yorimawari-nami" by SAR,

 Report of JERS/ERS System Verification Program,MITI/NASDA,1995

(3)石森繁樹、林節男「高波被害と海洋教育」日本環境学会第34回研究発表会

in富山予稿集、2008

(4)中島健「富山湾における河川から深海への土砂輸送過程」

日本海洋学会講演要旨集、2007

(5)張勁「陸と海がつながる自然の循環系」日本海学の新世紀3、

角川書店、2003

(6)上野輝弥、坂本一男著『日本の魚』中公新書、2004

 

10回「富山湾―自然の恵みと神秘Ⅰ」

石森繁樹

10.1 富山湾の特徴

私たちは富山湾から沢山の恵みを得ている。なかでもブリ、シロエビ、ホタルイカなど海の幸(図10.1)は人々の食生活を豊かにし、観光の振興に役立っている。天然の生簀(いけす)といわれる富山湾では暖海性の魚と寒海性の魚が獲れ、環境に優しい定置網漁のお陰でキトキトの味が楽しめる。魚が旨いのも、それなりの理由がなければなるまい。名物誕生の根拠を富山湾の特徴の中に探る。

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 10.1 富山湾の海の幸

 

富山湾は能登半島と飛騨山脈の大地形によってつくられた開放的な湾で、その景観は見る角度によって大きく異なる。氷見から東を望めば海を隔て魚津周辺の市街と北アルプスの雄大な眺望が開け、射水から北を望めば海の向こうに水平線が広がる。魚津から西を望めば対岸には南北に伸びる能登半島のなだらかな丘陵地形がある。湾に船を浮かべて南を望むと高低差のない海岸線に松林、市街地、臨海工場地帯が一線に並ぶ単調な陸風景が続き、海上からはつねに立山を中心とした雄大な自然のパノラマを楽しむことができる。    

富山湾の特徴のひとつは急に海が深くなることである。図10.2の海底地形図は海水を取り去ったときの想像図で音波観測に基づいて作成された。水は電磁波(光)に対して不透明なので、海底調査など海中の観測の多くには音波が使われる。図は富山湾を北側から俯瞰した海底地形図であるが、海底中央部を南(図の上方)に行くと急崖にぶつかり、陸棚斜面に刻まれた海底谷を通れば容易に浅い大陸棚に登りつく。その谷頭は藍甕(あいがめ)といわれる谷の駆けあがりで、いくつもの定置網(1)が設置される好漁場になっている。海底谷には現在河川の延長部分が水没したものと、存在理由が不明なものがある。後者の成因としては褶曲、乱泥流の下刻、地下水の流出などが考えられる。富山湾の大陸棚は非常に狭い。200m以浅を大陸棚とすると、観音崎から宮崎鼻までの範囲では氷見で約7km、生地鼻では1km(海底勾配が0.2もあり大陸棚と呼ぶには抵抗を感じる)に満たない幅である。富山湾の海底1000mの深みには富山トラフといわれる凹地があり、大和海盆に達している。富山トラフにはさらにこれを刻んで深海長谷が走り、糸魚川の北から日本海盆まで長さ約400kmを流れ下っている。これが日本周辺海域で最大規模の富山深海長谷である。

 

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 10.2 富山湾の海底地形

(日本近海海底地形誌、茂木昭夫)

 

 

富山湾の海水は層構造を形成している。300m以下の深層を冷たい日本海固有水が占め、その上に暖かい対馬暖流系水が乗り、そのまた上の表層(010m)を低密度の河川水が覆っている。

富山湾には多数の河川から淡水が流入しているが最近は海底湧水による淡水供給が話題になっている。張(富山大学)の推定によると海底湧水( submarine groundwater discharge)は月平均3.8×108 m3で県内河川水の月平均流入量8.1×108 m3と同じオーダーというから、富山湾の海洋環境を考えるうえの新たな因子として挙動が注目される。

富山湾の海水流動は対馬暖流が能登半島を通過する際の勢いによって複雑に変化する。連続した水中では、ある一部分が速く動けば、それを追いかけて流れが生じ互いに連動して運動が起こるからである。図10.3は各季節における湾内の平均的な流況を表したもので、各層の水温観測から求められた海水の密度分布、いわば海水中の高・低気圧分布から圧力傾度力を計算して得られたものである。流れは複雑であるが、海水が反時計回りに西から東へ向かう傾向は、ブイや海底設置の流速計、電磁海流計を曳航しての計測などでも確かめられている。また、富山湾からの漂流物は多く新潟方面に流れ、流出河川の拡散状況を映した衛星画像にも西から東へ向かう流れがしばしば見られる(図10.4)。こうした海水流動は海岸から数百メートル沖合いの流れで沿岸流といわれる。

海水流動のややこしさはそれが決して2次元的でない点にある。富山湾にはたくさんの定置網が仕掛けてあり、網をあげる漁師は身をもって流れの性質を知っている。彼らにとって表層と下層の流れが違うことは常識である。海底谷が発達した四方沖の海域では神通川の影響もあり、潮で網が破られることがある。とくに下層の流れは複雑で海底谷の谷頭をかけのぼる潮を土地の人は鉄砲水と呼んでいる。

海岸にごく近いところでは海浜流が卓越する。これは、おもに波浪によって岸近くに生じる流れで、海岸の侵食や海浜の砂礫を運搬する漂砂の原因となる。下新川海岸では漁港建設工事などで防波堤を築くと東に砂州がつき、反対側の西で侵食が進む。これは海浜流が西向きであるとすればうまく説明がつく。黒部川扇状地の等高線は同心円の整った扇形というよりは全体的に西にゆがんで見える(藤井昭二教授談)。これも海浜流の絶ゆまぬ営力のなせるわざと考えれば納得がいく。富山湾で沿岸流と反対に東から西へ向かう海浜流が存在するのは、冬場に北寄りの波が卓越することと海岸地形の向きが招来する自然の結果なのだろう。海浜流には岸に平行な並岸流と沖へ向かう離岸流が知られており、富山湾でも離岸流による水の事故が起きている。海水浴の最中にいつもと違う流れに遭遇し、なかなか岸に泳ぎつけないことがあれば慌てずに岸と平行に泳ぎ、この流れ(これが離岸流、幅は狭いので真横に泳ぎきるのは簡単)をぬけ出した後、ゆっくり岸に向かうことが肝要である。

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 図10.3富山湾の平均流動パターン   図10.4 河川水の流出拡散状況  

       (内山勇、1993      黒部沿岸 LandsatTM19950829

 

10.2 富山湾の名物

(1) 富山湾の神秘ホタルイカ(2)

36月に沿岸の定置網で漁獲される。暁の海面に踊る青緑色の神秘な光は人を魅了する。この発光生物(図10.5)については、常願寺川河口から魚津の沿岸15kmと沖合1.3kmの産卵群遊海面が国の特別天然記念物に指定されている(3)。光は酵素ルシフェラーゼのもとでの発光物質ルシフェリンの酸化反応で生じるが、なぜ光を放つかの理由(図10.6)については、身を隠す(counter shading)、敵の眼をくらます、照明や交信のためなどと考えられている。ホタルイカの寿命はほぼ1年で、昼は深海の200600mで生活し、夜間に30100mまで浮上する、いわゆる鉛直日周運動を行うようであるが生活史や生態については未だ不明な点が少なくないという。

(2) 富山湾の王者ブリ(4)

成長するにつれ名前が変わる出世魚で、富山では生まれて1歳くらいまでをツバイソ、コズクラ、フクラギ、2,3歳までをハマチ、ガンド、それより大きいものをブリと呼んでいる。東シナ海(五島列島近海)で生まれ、稚魚のうちはホンダワラなどの流れ藻に付いて生活することが観察されている。2,3年後には体長約60cmの紡錘形に成長し、沖合の長距離回遊生活を始める。春から夏に対馬暖流に乗って北海道近海まで北上し、秋から冬にかけ産卵場の東シナ海めがけて南下するが、大陸寒波が来襲し富山湾で冬雷が鳴り出す(ブリおこし)時期に富山湾に立ち寄る。この頃から本県の本格的ブリ漁が始まる。水温1518℃、透明度10m以下で好漁という。

(3) 富山湾の宝石シロエビ(5)

シラエビともいう。生体は無色透明であるが、死後白濁する。漁獲は411月に、あいがめの駆けあがり40200mの水深で行われる。日本近海に広く分布するが、高密度に生息して漁業の対象になるのは富山湾だけである。

(4) ホッコクアカエビ(6)

アマエビと通称される。もともと環北極海に棲む寒海性のエビで南限が日本海である。氷河時代に棲みついたと思われる遺存種で、水深200600mの日本海固有水域に生育する。小さいときは雄で大きくなると雌に性転換する雌雄同体魚(雄性先熟)である。

(5) ベニズワイガニ(7)

富山湾の代表的な味覚のひとつ。水深4002700m、水温1℃以下の低水温・高水圧環境に適応した日本海の代表的深海生物である。カニかご漁法の普及により資源量が減少したので資源管理がなされている。

 

10.3 富山湾の魚はなぜ美味い

富山のさかなの美味さの秘密について富山水産研究所の内山勇氏は次のように語る。

* 暖水性から冷水性まで、回遊魚から海底に棲む魚種まで、多様な魚介類に富

んでいる。

* 多くの魚が生活サイクルの中で美味い時期に獲れること。たとえば、ブリは

秋から冬にかけて南下回遊し富山湾で漁獲される頃は脂が乗っている、ホタルイカは産卵時期に獲れ、卵や内臓が充実している。

* 魚が生きたまま、資源に優しい定置網で漁獲される。

* 漁場が近く、市場に新鮮な魚が供給される。すなわち、多様な魚介類がその

美味しい時期に高い鮮度で供給されることが富山の魚のうまさの秘密ということであるが、まさにその通りであろう。                    

 

第10回 図5-6.jpg    

 10.5 光るホタルイカ         図10.6 光を放つ理由

 

まとめ

1 富山湾の地形は高度差4000mに象徴される

2 富山湾は大陸棚が狭く、急に深くなる

3 富山湾の海水は3層構造になっている

4 富山湾の流れに沿岸流と海浜流がある

5 富山湾は海の幸に恵まれている

6 富山湾の魚が旨いのにはそれなりの理由がある

 

よくある質問

① 対馬暖流の流速はどの程度か

(答)最大1.7ノット、普通は0.3ノット程度。因みに黒潮の流速は35ノット。

② ベナール型の対流とは何か

(答)シャーレに容れたエーテルに銀粉(アルミ粉末)を混ぜると、表面に六角

形をした蜂の巣状の細胞模様が見られる。エーテルの蒸発で上面が冷却しできるこの対流パターンを発見者にちなみベナール対流と呼んでいる。細胞の水平スケールは深さの約2倍になることが知られている。

③ 間宮海峡はなぜタタール海峡とも呼ばれるのか

(答)シベリア・ロシアに住む部族タタールによるものか。中国(明)ではタタ

ールを韃靼(だったん)と称した。間宮海峡(19世紀初頭間宮林蔵が海峡であることを発見)、タタール海峡、韃靼海峡みな同じ。(「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」 安西冬衛の一行詩)

④ 海面の渦はどのようにして計測するのか

(答)渦の大きさは様々であるが、総観規模synoptic  scaleの渦はリモート

センシングを用いた海面温度(SST)分布の計測によることが多い。

⑤ 日本近海には何種類の魚が棲んでいるか

(答)正確な数は不明である。目安の一つとして3600余種(本間義治著「日本海

の魚類相」、日本の科学者Vol.30No.31995)を挙げておく。

⑥ 地球温暖化が海流を変え、寒冷化などの異常気象を生じる可能性はあるか

(答)地球が温暖化して、たとえば大西洋のグリーンランド近海で冷水の沈み込

みが小さくなると深層循環に異変が生じメキシコ湾流が弱くなる。そうすると湾流が運ぶ多量の熱が北部ヨーロッパに供給されなくなり寒冷化する。これに関連して、ベルとストリーバーの文庫本『The Coming Globl Superstorm (8)が面白いので一読を薦めたい。また、IPCCの第4次報告書(2007)(9)にも"Has the Meridional Overturning Circulation in the Atlantic Changed ?" なる囲い記事がある。

⑦ 地球温暖化が日本海に及ぼす影響は具体的にどのようなことが考えられるか

(答)IPCC(気候変動に関する政府間パネル)から第4回目の報告書が出た。1990

年の第1回報告書では控えめな表現で気温上昇と人間活動との関連について言及していたが今回は表面温度が100年で0.74℃上昇し人類起源の影響が大きく効いていると明記している。報告書によれば海面温度は0.67℃、海面水位は17cm上昇した。気象庁は現在、「海洋の健康診断表」として日本近海における海面水温の長期変化傾向の情報を流している。これによると日本海の中部でこの100年間に海面水温が1.6℃、南部で1.2℃上昇し、北部では統計的に有意な結果が出ていないという。さて地球温暖化が進めば日本海はどうなるのであろうか。これに関して最近の日本海で起こったことを思い返してみると①水温が上昇した、②深層水の生成が弱くなった、③私たちが体感的に知っているように雪が少なくなった、④北海道の雪が湿雪になったといわれている、⑤マイワシがとれなくなった。87年と88年はエルニーニョの年であったが、このときから日本海の水温が上昇した。これを「レジームシフト」というが、これをきっかけにマイワシがとれなくなった、⑥黄海や東シナ海にたくさんいるエチゼンクラゲが日本海にもあらわれるようになった。⑦舞鶴湾でナマコやアサリが激減した。原因は今のところ中国東北部において特に冬場の気温が上昇して季節風が弱まり気候へ影響したためと考えられているが不明な点も少なくない。このように最近の気候の変化だけでも日本海にさまざまな現象が発生している。それでは地球が温暖化したら日本海はどうなるのであろうか。ひとつは日本海の海況を支配する対馬暖流が変化すると考えられる。現在の対馬暖流は入口である九州近辺の水位が出口である津軽海峡より10cmのオーダーで高いために、すなわち南北の海面の高低差によって駆動されていると考えられる。この海面水位の差は太平洋における偏西風と貿易風がつくる地球規模の還流によって生じる。この考えはストンメルという数学者が思いついたものだが、彼が導いた式を使って海面水位の高低を描いてみた(図10.7)。地球自転の効果が緯度によって異なると大洋の西側で海流が強化され、北より南の海面水位が高くなる。このことは、もし地球温暖化で亜熱帯高圧帯の位置が移動し風の吹き方が変われば日本海の海流を駆動する水位差にも変化が生じることを示唆している。こうして日本海に流入する対馬暖流に異変が起これば、日本の気候や日本海の生態系にも大きな変化が現われる可能性がでてくる。

第10回 図7.jpg 

 図10.7 亜熱帯循環系の海面水位

 

参考文献

(1)今村明著「定置網」富山大百科事典、北日本新聞社、1994

(2)奥谷喬司編「ホタルイカの素顔」東海大学出版会、2000

      富山県水産試験場編「富山湾の魚たちは今」桂書房、1998

(3)坂下顕著「富山湾魚類図鑑 ホタルイカ」アキ編集室

「出版倶楽部」、1999

(4)坂下顕著「富山湾魚類図鑑 ブリ」アキ編集室

「出版倶楽部」、1999

(5)坂下顕著「富山湾魚類図鑑 シラエビ」アキ編集室

「出版倶楽部」、1999

(6)坂下顕著「富山湾魚類図鑑 ホッコクアカエビ」アキ編集室

「出版倶楽部」、1999

(7)坂下顕著「富山湾魚類図鑑 ベニズワイガニ」アキ編集室

「出版倶楽部」、1999

(8)Whitley Strieber and Art Bell, The Coming Global

Superstorm, Pocket StarBooks, 2004

(9)UNFCCC/WMO/UNEP IPCC Forth Assessment WGI Report. IPCC,

2007

 

 

第9回「富山で生まれた日本海学」

越後喜紀

9.1 日本海学とは

「環日本海地域と日本海をひとつの循環・共生体系としてとらえ、長い歴史の中で繰り返されてきた循環と共生のシステムに学び、人間と自然とのかかわり、地域間の人間と人間とのかかわりを総合学として研究するもの」と定義されている。日本海学を考える3つの視点は、「循環」と「共生」と「海」である。すなわち、環日本海地域が周期性をもった地球全体の自然環境システムの中で存在しているという循環の視点、環日本海地域における人間と自然との共生、日本海を共有する地域間における人間と人間との共生の視点、環日本海地域において、日本海が果たしてきた役割、意識を問い直し、これからの日本海との関係をみつめるという視点である。研究分野は、①環日本海の自然環境 ②環日本海の交流 ③環日本海の文化 ④環日本海の危機と共生 の4分野である。

 

9.2 日本海学を生んだ富山

富山県には、日本海学研究の最良の地域としての豊かな自然環境がある。その3つの特色は、①高度差4000mの海、川、里、山を結ぶ水の循環があるということ ②豊かな森をはじめとする自然の恵みを受けた多様な生物が生息する共生のシステムがあるということ ③日本海固有水(深層水)と対馬暖流が織り成す豊饒の海、日本海に面しているということである。

富山県には、いつの時代も日本海に目が向いていた先人たちの交流の歴史があった。例えば、今から約1700年前の弥生時代中期から終末期にみられた四隅突出墳は、出雲と高志(北陸)にしかなく、日本海を通じての交流があったのではないかと考えられている。また、中世には、北条氏のライセンスを得て越前~越中~津軽を航行していた関東御免津軽船があった。当時は、越中の守護所が放生津にあり、奈良興福寺大乗院「雑々引付」によると、1306年「関東御免津軽船二十艘之内随一」の「大船」を経営する「越中国大袋庄東放生津住人沙弥本阿」が越前の三国湊で漂泊船だといって船と荷物(鮭など)を押し取られ、鎌倉幕府に訴えて1320年に和解したという。近世は、北前船の時代である。明治以降は、北前船船主を中心に北洋漁業への進出がみられた。1880年には、サガレン(今のサハリン)島出稼漁業者寄合に新湊の北前船主が参加している。大正期には、樺太~オホーツク海の租借漁区の2割が富山であった。昆布で有名な羅臼町7割が富山県人だった時代もあった。また、売薬の海外進出もみられ、1889年に朝鮮半島、その後中国、ウラジオストクへと進出していった。第2次大戦後も対岸諸国との交易、交流が盛んである。富山県の対岸諸国との友好提携先として、中国の遼寧省、ロシアの沿海州、韓国の江原道があり、北東アジア地域自治体連合(NEAR)への参加、国連環境計画(UNEP)の北西太平洋地域海行動計画(NOWPAP)の本部事務局の富山開設など環日本海施策に積極的に取り組んでいる。

 

9.3 環日本海の自然環境

数千メートルの深層の海流は、温度と塩分の違いによって循環している。北大西洋で沈んだ海水は、約2000年かけて世界の海洋を一巡しており、海洋のベルトコンベアとよばれている。そのミニチュア版が日本海の循環である。日本海では、北上した対馬暖流の一部が冬季の鉛直対流で深部に沈み、逃げ場がないので海底や中間層にたまり、水深200m以下では日本海固有水(深層水)となる。これは、低温で窒素やリンを含み、酸素も豊富であるとともに深層で海流となり、200年をかけて循環している。

日本海側の雪は、対馬海流がもたらす暖かい水蒸気が北西季節風によって運ばれ、山脈にぶち当たって上昇気流となってもたらされる。その雪が豊かな自然と風土(水、植生、生物多様性、人間活動)をもたらす。雪には、6つの環境形成作用(圧力、断熱効果、保湿効果、水分供給、反射・遮光効果、生育期間の短縮)があり、そのひとつである断熱効果が、耐凍性の低い種の高地への侵入・定着を可能にし、植物の多様性をもたらしている。

 

9.4 環日本海の交流

713年に成立した渤海は、727年以降、日本に34回の渤海使を派遣した。遣唐使の2倍以上の回数である。遣渤海使も13回を数える。渤海使は、冬の北西季節風に乗り、ウラジオストクあたりを出て日本海の沿岸に到着し、夏の南西季節風で能登・加賀・越前から帰国した。能登客院()や越前の松原客院が渤海使をもてなす宿舎であった。

京都の祇園祭の山鉾を飾る高級織布の中に、「蝦夷錦」がある。もともと中国の王族や高級役人が身につける絹製の服であった。蘇州、北京、ハルピン、ハバロフスクと山丹貿易によって蝦夷地に運ばれ、さらに松前から北前船で京都まで運ばれた。

 

9.5 環日本海の文化

日本や環日本海地域は、森林と豊かな自然が残る地域である。ここには、自然を敬い自然そのものが神であるという自然観を持つ民族が多く、アイヌをはじめ少数民族の宝庫でもある。日本には天台密教の究極の理論といわれる「天台本覚論」がある。仏教と神道の総合された考えであり、「山川草木悉皆成仏」という言葉がその特徴を示している。成仏の対象が人間や動物ばかりではなく、植物、鉱物にまで拡大されている。日本人は、食べて自分の体の栄養になるものを「お魚」や「お野菜さん」などとも呼んできた。ここにこれからの環境問題やライフスタイルのヒントがあるのではないか。

 

9.6 環日本海の危機と共生

(1)海洋汚染

海洋汚染には次の4つがある。① 船の事故によって漏れ出した原油や燃料などによる汚染(1997

年のナホトカ号の重油流出事故など)。② 川や大気に含まれる化学物質による汚染 (農薬など)。③ 川や海に捨てられた生活排水や海洋ごみ(ポリタンク、缶、ビン、ビニールくずなど)や船体の塗料などによる汚染。④ 放射性廃棄物の不法投棄による汚染。国連環境計画(UNEP)事務局長 アヒム・シュタイナー氏は、海は生態系を守る「青い森」と言っているように、大気中の40%のCO が海洋環境を通じて循環している。また、生き物が骨格を作るためには、アルカリ性で他の汚染物質が含まれない海水が必要であるが、産業革命始まりにはpH8.16であったものが現在pH8.05に落ちている。肥料や汚水による「酸欠海域」も増えている。こうした中、海洋環境に関して環日本海沿岸諸国が協力体制をとっている。国連環境計画の地域海行動計画として、1994年に日本海と黄海を対象とした北西太平洋地域海行動計画(NOWPAP)が出され、海洋環境保護に関するデーターベースの作成、各国の海洋環境保護に関する法律の調査、海洋環境調査、油汚染などの海洋汚染に対する地域協力、広報活動などを行なっている。日本の地域活動センターは、1997年に設立された環日本海環境協力センターであり、NOWPAPの本部事務局とともに富山県にある。

(2)大気汚染

自動車の排気ガス、対岸の石炭使用などによる硫黄酸化物、窒素酸化物が雨に混ざり、pH5.6以下になった雨・雪を、酸性雨・酸性雪という。日本では平均pH4.5程度である。日本の日本海側の冬には、北東季節風による大陸からの多量の汚染物質の輸送がみられ、降水量が多いために多量の酸性物質が地表へ降下しているデーターがある。

黄砂については、従来、黄河流域及び砂漠(タクラマカン・ゴビ)から風によって砂塵が運ばれてく

る自然現象であると理解されていたが、単なる季節的な気象現象から、森林減少、土地の劣化、砂漠

化といった人為的影響による環境問題としての認識が高まっている。土壌起源ではないと考えられる

アンモニウムイオン、硫酸イオン、硝酸イオンなども検出され、輸送途中で人為起源の大気汚染物質

を取り込んでいる可能性も示唆されている。一方、炭酸カルシウムを含み、酸性雨に含まれる亜硫酸

ガスの酸を中和したり、鉄やリンが海に落ちて栄養を補給する面もあるとの指摘もある。そうした中、

5カ国11自治体64団体の参加による黄砂の視程調査の第1回目が今年3月から5月に行なわれた。

これは、200712月に富山で開催された「 北東アジア環境パートナーズフォーラム inとやま」

「とやま宣言」の中で採択された調査である。日本は富山、山形、鳥取の331団体が参加し、その

うち富山県24団体(富大、国際大、県立大、工業高専、中太閤山小学校などの学校や企業や自治

体)であった。

(3)食糧・水の問題

日本のカロリーベースの食料自給率は40%(2007)で、輸入相手国は、アメリカ(22.3%)、中国

(18.4%)2006)が上位である。その中国も生活水準の向上により消費量が拡大し、農産物輸入量を増やしている。富裕層を中心とした水産物消費量の増大を背景に、マグロの買い付けでは日本が買い負けすることもある。一方、日本の水産業をめぐる現状は、他国200海里からの締め出しによる漁場の縮小、漁業者の減少(1949年の109万人から22万人に減少)、1988年まで世界一であった漁獲量の低下(2004年には第6位)、食用魚介類自給率の低下(2005年には57%)などの数字が示すとおりである。世界中から食料輸入をしている日本の国民一人当たりの食料輸送距離(フード・マイレージ、単位はtkm )は世界一であり、食糧輸送に莫大なエネルギーを消費していることも忘れてはならない。また、仮想水(バーチャルウォーター)の考え方によると、日本は食料とともに大量の水を輸入しているといえる。仮想水とは、食料を輸入している国において、もしその輸入食料を自国で生産するとしたら、どの程度の水が必要かを推定したものである。ロンドン大学東洋アフリカ学科名誉教授アンソニー・アラン氏がはじめて紹介し、日本では東京大学の沖大幹教授らのグループが研究、算出している。小麦1kg2トン、牛肉1kg20トン( 飼料作物含む )、全輸入農畜産物に換算すると年間約640億トンの水を輸入していることになる。食料輸入の多いアメリカ合衆国やカナダからの輸入が多く、中国やオーストラリアも輸入先である。一方で、日本人は輸入食料品に対する食の安全や安心には厳しいが、現状をよく把握していない面や、報道にふりまわされ、熱しやすくさめやすい面がある。例えば、「遺伝子組み換えは使用していません」という日本の食品表示は、5%未満の遺伝子組み換え大豆が入っていても使用が許される。つまり、100粒の大豆のうち5粒未満の遺伝子組み換え大豆が入っていても、上記の表示でよいのである。アメリカ大豆の作付面積全体の86%が遺伝子組み換えであり、大豆自給率4%の日本が消費量の75%をアメリカから輸入しているということも現実である。BSE (牛海綿状脳症) や鳥インフルエンザ、冷凍ギョーザ問題などは遠い昔の出来事のようである。食料自給率を向上させることに誰も反対はしない。国を挙げての第1次産業(農林水産業)の見直しが必要だが、現状は厳しい。地産地消による地域の食料自給率の向上は、取り組みやすいのではなかろうか。

(4)資源の問題

携帯電話には19種類のメタル資源が使われている。その中の銅やニッケルの最近の価格推移を見ると急激に高騰している(2007年のデーター)。その背景には、BRICs諸国の高度経済成長による需要増があり、19952005年対比で鉄は4倍、銅は7倍、ニッケルは17倍、ボーキサイトは20倍となっている。特に中国のメタル資源消費は世界の25%を占め、銅、鉄、鉛、亜鉛、ニッケル、アルミニウムの消費は世界一である。そのため、さらに需要が伸びる中国は、国際資源メジャーの縄張りに参入しており、有限で偏在する資源をめぐった「メタル・ウォーズ」の状態である。また、資源開発には自然破壊を伴うことも知っておくべきである。採掘準備のための樹木の伐採、表土の掘削、鉱脈にいたるまでの剥岩、「ズリ」の処理、排水処理などにともなう水質汚濁・土壌汚染・土壌浸食、選鉱( 原鉱石から精鉱へ)工程での薬剤使用による水質汚濁、生態系破壊、精錬工程での砒素、硫黄などの有害物質の排出、使用された化学薬品の処理不十分の場合の大気、水質、土壌への汚染、生態系破壊などである。鉱物資源開発は、発展途上国への依存度を増大させており、2030年代にはザンビア、コンゴ民主共和国、南アフリカ、チリ、ペルー、ブラジルの6カ国だけで依存度30%超と予想されている。先住民の生活するさらなる奥地での開発が進み、自然環境破壊はもちろん、強制移住などの先住民の権利侵害、児童労働・劣悪な労働条件、政治・行政・軍の贈収賄による腐敗、資源を資金源とする地域紛争などの問題も付随しておきる。「Out of sight, out of mind」という言葉がある。

 

9.7 日本海学を通して

日本海および環日本海地域の自然、歴史、文化(衣食住)は、「日本海」の恩恵を受け、1つの「循

環」・「共生」体系の中で存在することが確認できるのではなかろうか。ふるさと富山、日本、環日本海地域、地球の自然環境を守り、住みよい地域にするために、一人ひとり、地域、国がどういう思想(考え)を持ち、行動していけばよいかを考えるきっかけとし、循環型社会・共生する地域の知恵を共有したいものである。

 

よくある質問

① 黄砂が海に栄養を補給するという証拠は何か 

(答)洋上で植物プランクトン生育のために不足している栄養分が鉄で

あり(窒素やリンは充分)、鉄分などミネラルを豊富に含む黄砂粒子はその不足している栄養分の補給になるといわる。最近では、水に溶存する鉄でないと効果がないとの見解もある。そのため、実際外洋上に鉄(硫酸鉄)を撒いてプランクトンの生育や二酸化炭素の海への吸収などについて調べる実験も行われており、鉄を撒いて植物プランクトンの増殖が認められている(衛星からでも検出できている)報告もある。(富山県立大学環境工学科渡辺幸一准教授の回答)

② 使い古しの携帯電話からレアメタルの回収は行われているのか

(答)行われている。ほとんどの携帯電話関連企業が参加する

「モバイル・リサイクル・ネットワーク」を通じて回収されている。ちなみに、日本の廃棄物として銅(携帯電話以外も含む)は毎年約10万tで、リサイクル率は約40%である。

③ 北前船貿易が扱った物産品のリストが知りたい

(答)北海道、東北からはニシン(魚肥としてのしめかすが主)、

昆布、鮭、鱒などの海産物や木材。北海道へは米、縄、むしろなどの農産品や酒など。大阪へは主に米。上方や瀬戸内海地域からは綿、塩(瀬戸内)、砂糖、古着、雑貨、石(重しがわり)、鉄(鳥取、島根)など。

④ バーチャルウォーターはどのようにして推定するのか

(答)バーチャルウォーターとは、消費国(輸入国)において、もしそれ

を作っていたとしたら必要であった水資源量のことで、東京大学生産技術研究所の沖大幹教授等のグループが試算している。例えば、穀物の場合、典型的な栽培日数に対し、毎日4mm(稲は15mm)分の水が蒸発散や浸透等に必要であり使用されると見なし、灌漑してさらに加える分の水(blue water)のみならず、天水に起因する土壌水分(green water)もここでは消費される水資源として勘案している。求められた使用水量を単位面積当たりの穀物の収量で割ることにより求められる。詳細は、沖研究室のHP(http://hydro.iis.u-tokyo.ac.jp/Info/Press200207/#VW

⑤ 日本にも金や銀などの金属は産出するのか

(答)日本の金属鉱山は菱刈金山(鹿児島県)のみで、日本は必要な

金属資源のほぼ全量を海外に依存する状況となっている。菱刈金山は、鉱石1トン中の金量が約40グラムで、現在操業中の金鉱山では世界のトップクラスである。日本の国別金産出量は世界の0.3%で、銀は、統計上産出ゼロである。菱刈金山の銀黒と呼ばれる鉱石中にわずかに含まれる分の産出のみである。

⑥ ほかの環日本海諸国に「日本海学」と類似の学問はあるか

(答)日本海や環日本海地域を対象とする研究は、他の環日本海諸国

でも当然行なわれている。海洋環境や古代の玉文化など、個別のテーマでは共同研究がなされているものもある。循環、共生、日本海の視点を持った「日本海学」というのはない。

⑦ 日本はなぜ食料自給率を高める政策をとらないのか

(答)とっていないわけではない。例えば、食料自給率向上に向けた

国民運動推進事業「FOOD ACTION NIPPON」などがある。食料自給率低下の要因には、戦後日本の食生活の洋風化(自給率ほぼ100%の米の消費が減り、自給率の低い畜産物、油脂の消費が増加)、飽食と呼ばれる食生活、日本の農業の構造的脆弱さ(国土の狭さや零細経営など)、貿易自由化の影響などがあり、それらが複雑にからみあっているので、解決については一筋縄には行かない

 

 

富山で生まれた日本海学.jpg

 

 

富山で生まれた日本海学.pdf

 

 

第8回「日本海の特性」

石森繁樹

8.1 日本海のあらまし

日本海はユーラシア大陸中緯度帯の東端に隣接した平均水深1350m、面積130km(日本国土の3.4倍)の縁海で、今からおよそ2000万年前に形成されたといわれる(1)。全般に陸棚の発達が貧弱であり、海水をとり除くとお盆のような形をした海底(basin)が現われる。とくに1000m以深の海底は北東から南西に伸び西洋梨に似た形をしているが、北緯40°線を境に北と南で地質学的に様相を異にする。北側には3000mより深い日本海盆が、中央には好漁場である海底の高まり大和堆が、南側には隠岐堆や朝鮮海台などの海底隆起と大和海盆や対馬海盆などの凹地が複雑な海底地形を形成している。ロシア沿海州南部の海岸は急傾斜で深くなり、距岸45km3000mの海底に達する。日本海盆は厚さ約8kmの玄武岩質海洋地殻の上に2kmの堆積物をのせた地質構造で、平均水深は3500mと深い。一方、南側に多い海嶺等の高まりは、かつて日本列島がユーラシア大陸と一体であったときの大陸の残存物と考えられ花崗岩質である。日本海東部にはプレート境界が南北に走り、地殻変動が活発(2)で海底地形に特徴がある。太平洋側と比較して海岸線に沿う島が多く、礼文島,利尻島、奥尻島、飛島、粟島、佐渡島、舳倉島、七つ島、隠岐島、壱岐などが岸から似た距離に並んでいる。

日本海は4つの浅い海峡で外海と連絡している。対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡、間宮(タタール)海峡はいずれも狭いうえ、最深部でも140mと浅いため日本海は閉鎖性が強く、その影響は生物の進化や分布に見られる。

日本海の大部分は日本海固有水と呼ばれる一様な性質の水塊によって占められている。日本海固有水の特徴は、水温0.01.0℃、塩分34.0034.10psu、溶存酸素量210260μmolkg-1のように水質が非常に均一なことである(3)。図8-1は舞鶴海洋気象台が観測した2000m深の水温実測データであるが、縦軸のポテンシャル水温は水圧による温度上昇分を除いた補正水温で、ほぼ現場の水温と考えてよい。いずれの観測値も0.0500.075℃ の範囲内で微小に変化し、ほとんど0℃に近い。ひとつ興味深いことは1990年以降深海における水温が上昇気味であることである。

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8-1 日本海固有水の水温変化(舞鶴海洋気象台) 

 

日本海に流入する対馬暖流は対馬海峡から入り日本海南部の表層を通って津軽・宗谷両海峡から流出する。その際、大量の熱を日本海へ持ち込み日本の気候形成に深く関わっている。

対馬暖流が拡がる暖水と直下に居座る寒冷な日本海固有水の二重構造は同じ場所に寒・暖両水系の魚種が生息することを可能にしている。ただし、前述のように日本海は敷居が高くて外海からの生物種の移入が限られるうえ、生物の生存環境としては異常に冷たい世界であるから、たとえば日本海に棲む魚の種類は約700種と少なく、日本近海の1/5にすぎない(ちなみに世界の魚の種類は約3万種といわれる)。

8.2 日本海の海流

8-2は日本近海における海流の模式図である。日本海の対馬暖流とリマン寒流の流路が描かれている。対馬海峡から入る暖水の起源は黒潮と東シナ海の沿岸水との混合水および間欠的に黒潮から切り離される海水と考えられる。日本海の表層水となるこの暖水は春に塩分が高く、夏は低い。対馬暖流系水の厚さ(4)は日本付近で約300mであるが、沖に向かって薄くなり、北緯40度付近で極前線を形成する。流入する流量は平均2 Sv (スベルトラップ、1 Sv=100m3s-1)の程度であり夏に多く、冬は少ない。対馬暖流は枝分かれして流れるが、流路については3分枝説が有名である。第1分枝は対馬海峡東水道から入り日本沿岸の大陸棚に沿って浅い海を流れていく。第2分枝は流量が増加する夏に形成され、西水道から流入し200m等深線に沿って隠岐島の北を通り能登半島に到る。第3分枝は西水道を通り朝鮮半島沿いに北上し、緯度38度のあたりで離岸して北東に流れる。第1分枝と第2分枝は海水が海底地形の変化に対して渦度(5)を保存しながら流れるために生じる(地形性β効果(5))。第3分枝の方は海水が緯度の変化に対して渦度を保存するために生じる(β効果(5))。対馬海峡から流入し日本沿岸の大陸棚に沿って流れる第1分枝は暖候期に入ると蛇行し始め、8月に蛇行を強めながら岸を離れるようになる。衛星画像によると日本海には大小さまざまな停滞性あるいは移動性の渦が存在するが、海洋環境調査図に見られる佐渡冷水域や能登沖暖水域などは停滞性の強い渦である。

リマン海流はダッタン海湾の西から間宮海峡を経て沿海州沿いを南西に流れ、ピョートル大帝湾から北朝鮮に達する寒流である。

8-3は舞鶴海洋気象台が発表する2010530日現在の海流図である。いわば今日的「海の天気図」あるいは海の情報誌で、海流の日々の強さや蛇行の様子を伝えている。

海流を駆動する直接の力は前述のように、風の応力と海水の密度差による力である。日本海の循環を支配する対馬暖流の場合は、こうした力の直接的な働きを考えるよりも、大規模場で既に形成された圧力差に着目するほうが重要である。この圧力差は偏西風と貿易風により形成される北太平洋亜熱帯還流の西岸強化に伴う海面水位の変化を反映したもの(ストンメルによる)で、対馬海峡の水位は津軽海峡より約10cm高い。これは、日本海が完全には閉じていないため海流もその場の風や海水の密度差だけでなく外海の影響も考慮しなければならないことを教えている。

佐渡海峡を挟んだ2点で海面水位を調べると、海面は本州側で高く沖に向かって低くなっている(6)。日本海側の沿岸全体でみられるこの傾向から第1分枝は圧力傾度力とコリオリ力がバランスした沿岸境界流と説明できるが、入口と出口の水位差がもともとの原因で、その結果として沖に向かう圧力傾度力が形成されると考えるほうが自然である。

海水の密度は水温と塩分で決まる。日本海の水温は冬014℃、夏1627℃で分布(7)し、南北間に年平均で約10℃の水温差がある。南北間水温差は冬が夏より3℃ほど大きい。水温傾度は極前線がある北緯40度付近で大きく約1.8/緯度である。

塩分の分布は冬期には南部が高く34.034.6の範囲で変化するが、夏期は冬より低塩分となり日本海全般で約33.8である。とくに対馬暖流が流入する南部海域は33.0と低くなる。

風の応力(運動量のフラックス)は顕著に季節変化(8)する。ストレスの大きさは冬が夏の2倍以上で、とくに冬季北部海域では反時計回りの循環(正の渦度)を生じるセンスに分布する。これを反映して海流の風成循環成分もかなり季節変動する。

衛星画像は日本海表層にたくさんの渦が存在することを明らかにしてきた(8-4)。対馬暖流は日本海に入ると枝分かれして蛇行を始め、極前線は常に複雑な波打ちを見せている。これらの現象は基本的に流れと渦の相互作用で説明できるので、日本海に充満する渦動の研究は今後の重要な研究課題である。

7-2.jpg     

 図8-2 日本近海の海流図   図8-3 日本海の海流 図8-4 日本海の渦

       (理科年表2005   (舞鶴海洋気象台)  (NOAA AVHRR近赤外画像) 

   

8.3 日本海の気象

 日本海に冬の季節風が吹き出し海上が大荒れになった1990125日の気象衛星ひまわりの雲画像を図8-5に掲げる。前日124日には突風と大波により2隻の7000トン級の船が遭難した。画像を見るとロシア沿海州一帯から見事な筋状の雲が出現している。ウラジオストックの沖で発生した筋状の雲は南東方向に伸びたあと東に向きを変えて津軽海峡に達している。酷寒のシベリア大陸から乾燥気塊が北西季節風として日本海上を吹き渡ると多量の水蒸気が補給されて変質する。これがシベリア高気圧の沈降気流が形成する23kmの逆転層下に閉じ込められ、下層から加熱されると不安定化して、気層には盛んにベナール型の対流が発生する。筋状雲はこうして発生した高さ12kmの背の低い積雲が海上を吹く風の方向に整然と並んだものである。天気図が西高東低の典型的な冬型の気圧配置のとき出現し、山間地に山雪をもたらす。また日本海上層の気圧の谷に強い寒気が入るといわゆる袋状の等圧線型になり、筋状の雲列の南縁に直交して北東から南西に走る雲列を伴う雲の集合体が現われる。これはきまって朝鮮半島のつけ根で発生し、幅を拡げながら帯状に日本列島の山陰・北陸の間に上陸する。この帯状雲はシベリアから強い寒気流出があること、朝鮮半島のつけ根にある大きな山塊で気流が二分され風下の海上低圧部で合流すること、日本海に出て下層から暖められ水蒸気の補給を受ける等の条件が揃うと発生する。収束による強制上昇、上昇気流内の潜熱の放出および上層風と下層風のベクトル差が示す寒気移流で生じた帯状雲には中小規模の低気圧や渦が発生して海上は大時化となる。この帯状雲が上陸する地点の平野部で大雪となる。山雪に対して、これを里雪という。

帯状雲は日本海西部のほか北海道西部でも発生する。北西季節風が弱まり、オホーツク海の流氷域と北海道の東北から寒気が流れ出し、日本海の相対的に暖かな北西季節風との間に収束帯が形成されるからである。ここにも小低気圧(渦巻き)がしばしば発生して、日降雪量1mを超す局地的な豪雪になることがある。

     7-3.jpg                8-5 日本海の雪雲(1990.1.25.03Z

                   気象衛星ひまわり可視画像

 

日本海の気象と言えば雪であろう。狭い日本にありながら、冬の天気は脊梁山脈ひとつではっきりと明暗に分かれてしまう。雪は生活を大きく支配する気象因子であるから、住民にとっては豪雪がいつ、どこで降るかが最大の関心事となる。言い換えれば降雪が集中する時刻と場所を特定する問題である。

陸で大雪が降るときは、海上でも大時化となる。ブイ(北緯37.9度、東経134.5度)の観測によれば1990年1月2512時(日本標準時)の気象海象は、北西の風19.1ノット、気温-4.1℃、水温12.5℃、波高2.7m、周期8秒で、前日から25ノット以上の強風が吹き続け表面海水は撹拌されて、水深100mの水温が表面と同じ12.5℃であった。気温と水温の温度差から判断して当時の下層大気は不安定であり、突風など激しい気象が起こったと考えられる。先に述べた大型船の遭難は、若狭湾沖の小低気圧による突風と高波が原因であった。

寒波が本格的になる頃、日本海沿岸各地では雷、竜巻、突風など激しい大気現象が多発する。秋田地方ではハタハタ漁が始まる1112月に雷が鳴ることから、ハタハタを<かみなりうお>という。富山湾では雷鳴とともに雪が降りはじめ、海の幸のブリが獲れ始めることから、冬雷を<雪おこし>とか<ブリおこし>と呼んでいる。一般に雷は稲妻の文字が示すように稲が実る夏の風物詩であるが、北陸では冬を象徴する現象である。

冬の日本海は北西の風をまともに受け、波が高い。日本海沿岸各地の波浪観測資料によると、北海道から山陰にかけて波高は1.1m以上で周期は5秒台が多い。夏季(58月)はどこも穏やかであるが、冬季(122月)はとくに能登から東北北部にかけて波が高くなる。波浪の周期は太平洋岸の7秒台に比較して短いが、これは日本海の吹走距離が700km程度で短いことと外洋からうねりが入りにくいことによる。周期が短いことは日本海の波が太平洋のような大海原の波より波形勾配(6)が険しいことを意味する。日本海の高波は冬の季節風によるものが6割を占め、台風によるものはさほど多くない。季節風は、大陸寒波の著しいとき日本海の中西部で強く、寒波の南下が通常のときは北部で強い。この性質を受けて、波にも同じ傾向が現れる。風浪は波長で位相速度が決まる分散性波動であるから、長周期成分波は浪源から遠方までうねりとして伝播する。

日本海のうねりは富山湾の<寄り回り波>が有名である。北東に開いた湾の形と海底地形が関係して特定の海岸で顕著な高波となり、冬の凪いだ日に突然来襲する。浪源は北海道西方海上といわれ長い周期が特徴である。船の係留索を切断したり、走錨をひきおこすだけでなく、ときに人身事故や海岸侵食の原因となる。

雪の季節が過ぎ、日本のはるか南方まで勢力を伸ばしていた寒気団が後退し寒帯前線が日本付近に近づくと、低気圧が日本海に入り急速に発達するようになる。この低気圧めがけて南風が吹くと、日本海側はフェーン現象で乾燥した熱風が卓越する。

夏の日本海は、鉛色の冬のイメージとは裏腹に晴天の日が多く、豊富な日射を受けて明るく輝く。全般的に風が弱く穏やかであるため霧が発生する北部海域を除けば航海も容易になる。

 

まとめ

1 日本海の海底地形は中央部の大和堆が北の日本海盆と南の複雑な海底

を二分する。

2 海底地質に南北の差異が認められる。北部海底地殻には玄武岩質が多く、

南部では花崗岩が多産する。

3 日本海固有水は異常に冷たく、低塩分で、かつ溶存酸素量が多い。

4 対馬暖流は日本海の海況や日本の気候形成に重要な役割をはたす。

5 日本海は閉鎖性がつよく魚類相が貧弱である。

6 日本海表層とくに極前線付近には大小さまざまの渦が存在する。

7 シベリア気団の寒気の吹き出しが強いと日本海は大荒れになり、

日本海側で大雪が降る。

8 日本海のうねりとして「寄り回り波」が有名である。

9 日本海側は気候のコントラストが明瞭で、鉛色の冬のイメージとは

裏腹に夏は明るく、フェーン現象も影響して暑い日が多い。

  

よくある質問

① 不審船はなぜ日本の領海に侵入してくるのか

(答)工作活動、拉致、麻薬密輸、密航などを行うためと考えられる。

② 密漁船はどこの法律で裁かれるのか 

(答)漁業協定などがなければ当該沿岸国の法で裁かれる。

③ 領海侵犯で拿捕された漁船などの事後処理はどうなるのか

(答)基本的には当該沿岸国の法で裁かれる。拘束、取調べ、裁判、

処罰(船舶・貨物の没収、罰金、損害賠償など)を受けることになる。

ときには国家が介入し国際裁判所が仲裁することもある。

④ 2001年に発生した「九州南西海域不審船事案」の船舶を北朝鮮のものと断定

した根拠は何か

(答)自爆沈没した不審船を引き揚げ、第十管区海上保安本部と鹿児島県警の

合同捜査本部が証拠物の分析と鑑定を行い北朝鮮の工作船と断定した。   

⑤ 密漁船、海賊、工作活動船と遭遇したとき自衛隊は武器を使用できるか

(答)警告射撃、緊急避難、正当防衛での使用に限られるが、海賊対処法で

海賊船が民間船舶に著しく接近し停船命令に従わないときは停止のための船体射撃ができるようになった。本法の武器使用規定は「人類共通の敵」である海賊などに向けられる性格のもので日本国憲法が禁じる「武力の行使」にならないことはもちろんである。 

⑥ 安全な海上交通路sea lane)はどのようにして確保するのか

(答)大変な難問である。広範なシーレーンにおいて船舶の生命財産を武力攻撃

や海賊から守る手段は簡単には見つからないからである。マラッカ海峡の航行安全に関する国際協力メカニズムやソマリア沖海賊対策など身近な例があるが、わが国は平和国家路線を堅持して外交交渉を重ね、国際社会と協力して海上交通路の安全確保に努めてきた。

 

 参考文献・用語説明

(1)平 朝彦著「日本列島の誕生」岩波新書、1993

(2)上田誠也著「地球・海と大陸ノダイナミズム」NHK人間大学テキスト、1994

(3)尹 宗煥著「日本海の深層水塊と深層循環」環日本海環境白書20032003

(4)対馬暖流の勢力:対馬暖流の層厚はせいぜい300mであるが、その勢力の

指標としては100m深水温10℃以上の海域の面積が用いられる。

(5)宇野木早苗、久保雅久著「海洋の波と流れの科学」東海大学出版会、1996

(6)北日本新聞社編「富山大百科事典」北日本新聞社、1994

(7)国立天文台編「理科年表」丸善、2004

(8)舞鶴海洋気象台編「日本海の気候図」舞鶴海洋気象台、1997

(9)波形勾配:波の険しさを表す用語。波高/波長で定義する。

 

7回「海の安全」

石森繁樹

7.1 海の安全の現状

日本の海は安全だろうか。能登半島に志賀原子力発電所がある。付近の高みから海上に目をやると一隻の白い船があった。形や動静から、漁船ではないと感じ調べてみると海上警備の巡視船であった。9.11事件後のテロ対策として海上保安庁は連日この任務に当たっていた。

あちこちで不審船事案が起こった。能登半島の沖で日本漁船の姿をした2隻の不審船が発見された。海上保安庁巡視船は領海侵犯のかどで停船命令を出したが、これを無視して遁走した(1999)。自衛隊誕生以来初の「海上警備行動」(1)が発令された事件であった。2001年には哨戒中の自衛隊機が不審船を発見したが巡視船や航空機の停船命令と警告射撃を振りきり逃走した。不審船は追跡する巡視船に自動小銃やロケット・ランチャーで攻撃をしかけたが、最後は追い詰められ中国領海内で自爆沈没した。引き揚げてみると北朝鮮の工作船(2)であることが判明した。船内には子舟や水中スクーターが格納され、ロケット・ランチャー、地対空ミサイル、機関銃を搭載する戦闘艇そのものだった。

密漁船など違反操業のニュースが後を絶たない。潜水器具を使用しての密漁や漁業協定違反の操業は地元漁師の死活問題だけでなく乱獲による資源の枯渇を招きかねない。

2008年にも長崎県において韓国船による領海侵犯(3)が数件あった。日本海で密漁船を取り締まる「白嶺丸」は韓国漁船11、中国漁船7、台湾漁船2の計20隻を拿捕(4)している。

海上ではときに船同士の衝突事故が起こる。2006年、根室沖でサンマ漁船とイスラエルの貨物船が衝突し漁船員7名が死亡した。2007年、宮崎の小型船が大型の貨物フェリーに当て逃げされた。小型船の3人は海に投げ出されたが、さいわい救命ボートに乗り移り3日後に救助された。何故にその場で捜索救助の活動がなされなかったのか海の男の常識では考えにくいことだった。海の恐さを知る者の紳士協定として人命救助は海上における当然の勤めであり、シーマン・シップ(seamanship)といわれる船員の常務だったはずである。

海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突(2008219日)や 明石海峡における貨物船、タンカー、砂利運搬船の3重衝突(200835日)が起こった。いずれも船舶が輻輳する海域を自動操縦で航行していた。監視体制や当直士官の習熟度が不十分であり、安全に対する意識の希薄さが招いた事故であった。

次は海賊の出現である。マラッカ海峡は日本のエネルギー輸送の生命線であるが、商船に対する海賊行為(船舶の強取、船内財物の強取、人の略取など)が横行し、2003年に150件発生した。2005年には石油掘削プラントを曳航中の外洋型タグボート「韋駄天」がマラッカ海峡で海賊に襲われ3人が誘拐された。2007年ごろからソマリア沖・アデン湾で海賊事案が多発した。2008年には111件、2009年には210件が発生し、50数隻が乗っ取られ、約257名の船員が人質となった(4)。わが国の船舶では2008年、アデン湾で15万トン大型タンカー「高山」が不審な船舶から発砲を受けて被弾し、2009年には自動車運搬船「JASMINE ACE」が銃撃を受けた。ソマリア沖・アデン湾はスエズ運河を経由してアジアとヨーロッパを結ぶ重要な交通路で年間18,000隻の船舶が通航する。

こうした事態に対処するため世界各国は海軍を派遣して安全な海上交通路(シーレーン)の確保につとめている。もともと海軍は商船隊の活動を守るために誕生した歴史的経緯がある。わが国も2009年、「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」を制定して自衛隊法による艦船派遣を決めた。200912月現在、当該海域の海賊対処行動に48回出動し356隻の船舶を護衛する(4)など海の平和と安全を脅かす現代版海賊問題と真正面から取り組み航行安全に貢献している。

日本周辺海域には竹島、尖閣諸島、北方4島など難しい領土問題があり、日本と周辺諸国間に衝突が目立つ。竹島は日韓双方が領土を主張する係争地であり排他的経済水域(EEZ)をめぐる論争が絶えない。たとえば、2006年海上保安庁が竹島海域海洋調査を行うため測量船を現地に向かわせようとしたら韓国はこれに猛反対し、調査を実施すれば測量船の拿捕も辞さないと強硬態度に出た。結局は日韓の外務次官折衝で日韓衝突は避けられたものの事態は一向に解決していない。尖閣諸島でも日中が領土を主張するなどEEZ境界付近の資源開発や領海をめぐる問題が多発している。2008年には中国海洋調査船2隻が尖閣諸島魚釣島南東約6kmの日本領海を航行し、警告を無視して停留するニュースがあった。北方問題も日ソ外交の進展がなく解決の目途が立っていない。毎年のようにロシアによる不条理な漁船の拿捕が続いている。

北朝鮮のミサイル発射実験があった。中距離ミサイル・ノドンや長距離ミサイル・テポドンが日本海や太平洋に着弾する物騒な海になり、国民とくに空や海で働く者には大迷惑であった。拉致問題は今日も未解決である。海上保安庁作成の北朝鮮工作員の浸透ポイントを見ても海岸警備体制の手を緩めるわけにはいかない。

 

7.2 海の安全の確保

このように日本の安全にかかわる海事問題はいろいろあるが、こうした事態への対応は一体どうなっているのであろうか。不審船事案の教訓と反省を踏まえ海上保安庁と海上自衛隊間の連携強化が問題となり法改正がなされた(2001年)。改正海上保安庁法では不審船への立ち入り検査で武器使用が認められ、臨検対応がしやすくなった。

改正自衛隊法では武装工作員の事案等に効果的に対応する武器使用が可能になり、海上自衛隊では新型ミサイル艇の速力向上、護衛艦への機関銃の装備、艦艇要員充足などが実施されるようになった。また、哨戒機(P-3C)から基地および基地から中央への画像等大容量情報伝送能力の強化がなされ、不審船については不測の事態に備え当初から自衛隊の艦艇を派遣する、遠距離から正確な射撃を行う武器を整備する、などの措置が講ぜられるようになった。

海上保安庁と海上自衛隊の違いを端的に表現すれば、前者は海の警察業務を担当し、後者は防衛業務を担当する。警察業務としては、海の治安維持、海上交通の安全確保、海難救助などが挙げられるが、不審船、武装工作員、海賊、テロなどへの対応は海上保安庁だけでは困難を伴う。こうした事案には共同で対処することが大切で最近は海上保安庁と海上自衛隊との合同訓練も行われるようになった。

違法操業や密漁といった漁業問題への対応も厄介な問題である。明らかに他国の領海に入っての密漁は厳重な監視と取り締まりを強化すれば解決しそうに見えるが適切な装備を有する海上監視の舟艇が不足する現状ではそれも難しい。関係者の交流に基づく漁業資源への共通理解、相互信頼、モラルの醸成など環境整備に期待したいが実現にはまだ時間がかかりそうである。

排他的経済水域が重なり境界が不明確な水域の漁業問題は特に厄介である。関係国間で漁業協定を結び暫定水域を決めても、領土問題の解決と排他的経済水域の境界画定がなされない限り従来どおりの不法操業は続き、結局は国益を損なうことになるだろう。積極的な外交努力により一日も早く問題が解決されることを望まずにはおられない。

海上は常に大切な人材物資が輸送される場である。輸送が安全に行われるためには、海上輸送に携わる優秀な人材と安全なルートの確保が不可欠である。

日本は資源もエネルギーもほとんどを海上輸送に依存している(輸送量は重量換算でわが国貿易全体の99.7%)。中東からの石油はホルムズ海峡やマラッカ海峡を、食料その他の物資もそれぞれのルートを通って運ばれる。海上輸送に携わる我が国商船隊は1980年の日本籍船1176隻、日本人外航船員38000人から、2005年の95隻、2600人へと激減した。これは海運企業が経済を優先して、船籍を税金の安いパナマやリベリヤに移籍し、低賃金の外国人雇用に切り替えたためである。こうした政策によって生じた負の遺産は、海に生きる人間の専門性を疎外し、海上技術を身につけた人材を多量に切り捨てたことである。

現在の日本商船隊が運航する船舶は約2300隻(殆どが便宜置籍船5で日本籍船は90隻のみ)であるが、その大半は外国人(96%)の手で担われ、有事の際(日本が武力攻撃を受けるなど)は物資の安定輸送に支障が出かねない。今こそ、国は一定規模の日の丸を掲げた日本籍船を保有し、優秀で信頼できる日本人船員を確保する意思を明確にして無策といわれた海運政策に早く終止符を打つべきである。

島国日本はまさかの時に海の糧道を絶たれたらお終いである。海上交通の安全ルートの確保は平時においては海上保安庁が、有事の際は自衛隊が担当すると言ってしまえば簡単であるが、大切なことは平素から外交や経済を通して海の路(sea lane)の安全確保に努めることだろう。さいわい20074月に待望の海洋基本法が成立し、20083月には海洋基本計画が策定された。「海洋の安全の確保」は本計画の重要な柱のひとつに取り上げられている。この法整備によって一元的な海洋戦略の構築が可能になったので、本稿で論じた諸問題が一日も早く解決し安全で平和な海が実現することを祈りたい。

 

一口メモ:

新たな海運政策案として国は、非常時にも最低限の社会生活を続けるために必要な日本籍船を450隻、日本人外航船員を5500人と試算した。海洋基本計画は海上輸送の安定確保のため日本籍船を5年で2倍に、日本人船員を10年で1.5倍に増強する政策を打ちだしている。このナショナルミニマム論を実現するためにも、「トン数標準税制」(6)を導入するなど強い政治のリ-ダーシップを発揮してもらいたいものだ。

 

まとめ

1 不審船、密漁船、衝突、当て逃げ、海賊行為など海の安全を脅かす

事案が多い

2 領海をめぐる侵犯問題が後を絶たない

3 排他的経済水域の線引きは厄介で未解決な問題である

4 公海においてもミサイル落下の危険や海賊行為が発生する

5 海の安全を守るのは海上保安庁と自衛隊である

6 海上保安庁は海の警察業務を担当し、自衛隊は防衛業務を担当する

7 海運立国の日本にとりシーレーンの確保は重要である

8 海上輸送の安定確保のため日本籍船と日本人船員を増強する必要がある

9 海洋の安全の確保は海洋基本計画の重要な柱である

 

よくある質問

① 津軽海峡は日本の領海か

(答)津軽海峡は国際海峡とし、3海里を領海としている。

② 水平線までの距離を求める近似式はどのようにして得られるのか

(答)眼Eの高さをh、地球中心をO(半径をr)、眼から水平線の一点Pまでの距

離をxとする。直角三角形OPEの辺の長さの関係から

r2 + 2 = ( r + h )2

x2 = 2rh+h2 

x = (2rh+h)1/2 (2rh)1/2

この式に、r= 6370kmと眼の高さhを代入すれば水平線までの大体の

距離xが求まる。hをm単位、xを海里単位で表せばx=2h1/2

③ 排他的経済水域を200海里と決めた理由は何か

(答)一説によると1947年にチリーがフンボルト海流の幅から200海里保存水域

を主張したといわれる。

④ 北朝鮮は海洋法条約を採択しているか

(答)調印したが批准はしていない。

⑤ 200海里境界線付近で発生する問題にどのように対処したらよいか

(答)関係当事者国どうしで話し合うことを基本とする。国際裁判所が調停に

入ることもある。

⑥ 200海里の管轄海域の広さはアメリカがトップか

(答)アメリカ、オーストラリア、インドネシア、ニュージーランド、カナダ、

日本の順。

⑦ 沖ノ鳥島は日本の島か

(答)1931年に小笠原支庁に偏入された日本最南端の島である。九州パラオ海嶺

の中央付近に位置し、石灰岩の島(礁卓)であるため継続的に護岸工事が行われ、気象観測や灯台設置など独自の経済的生活が営まれてきた。

⑧ 大陸棚延伸問題とは何か

(答)国連海洋法条約第76条「大陸棚の定義」及び77条「大陸棚に対する沿岸国

の権利」によると、200海里経済水域を超えて広い大陸棚の海底及び海底下の鉱物資源、石油天然ガス資源などの非生物資源、海底および海底下に生息する生物資源の開発に関する権利を主張できるので、沿岸国は大陸棚限界を広く画定するために躍起になっている。条約では、海底部分が「領土の自然の延長」であれば大陸棚と認めることを基本にしているので、たとえば日本という陸塊、あるいは地質体はどこまでか、を国連の「大陸棚限界委員会」に証拠を示して納得させる必要がある。申請中で現在審理が行われている。

⑨ なぜ鳥取や兵庫のところで領海が狭いのか

(答)領海の幅を測る根拠の基線には「通常の基線」と「直線基線」の2種類

がある。前者は海岸の低潮線を基線とし、後者は一連の島が存在したり屈曲した湾入など形状が複雑な海岸線に設定できる基線である。上記の海岸では前者が適用されている。 

 

参考文献など

(1)  海上警備行動: 不審な船や艦船の出現に対処するため、自衛隊法により

艦船を派遣して治安を命じる行動。海上の治安維持にあたる海上保安庁の能力を超えると判断したとき防衛大臣が発令する。

(2)海洋政策研究財団編「海洋白書2004」成山堂書店、2004

(3)海洋政策研究財団編「海洋白書2009」成山堂書店、2009

(4)海洋政策研究財団編「海洋白書2010」成山堂書店、2010

(5)便宜置籍船:船主が外国に船籍を置いた船。税金や法令適用の緩和策と

して用いられる。

(6)トン数標準税制:運航している船舶のトン数から利益を推定して課税する

方式。好不況によらず一定税額で諸外国は既に採用している。

 

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