第13回「富山湾―海に生きる人と暮らし」
石森繁樹
13.1 海に生きた人の歴史点描
日本海は古代から人や物や文化のやりとりがおこなわれる海の道であった。金関恕によれば縄文時代に大陸から玉製の耳飾、漆塗り土器、青銅製の小刀、鼎が伝わり、弥生時代には稲作技術をはじめさまざまな文化が海を越えて伝来した(1)。
わが国が律令国家になる前は、7世紀初頭の遣隋使や630年から始まる遣唐使が盛んに唐の文物を移入した。8~9世紀には渤海使がたびたび日本海を往来した。わが国と親善関係を結ぶための外交折衝であったが、文化・文物の交流に寄与した。
日本最古の海事法規集「廻船式目」には13世紀初頭の主な港として三津七湊(さんしんしちそう)の名がある。三津は伊勢の安濃津、筑紫の博多津、泉州の堺津、七湊は越前の三国湊、加賀の本吉港、能登の輪島湊、越中の岩瀬湊、越後の今町湊、出羽の秋田湊、津軽の十三湊のことである。中世に栄えた港はほとんど日本海沿岸にあった。村井章介(2)は中世の北・海・道(北陸道に対比して)の豊かさについて、越中の放生津が鎌倉時代から北条氏ゆかりの海運業者が居を構える交易拠点であったこと、後醍醐の皇子宗良親王(1341~1344)や将軍足利義材(1493~1498)の長期滞在、加賀の宮腰(みやのこし)が野々市の守護所に近く経済の要所であったことなど興味ある論述をしている。
室町時代には明との間に勘合貿易があった。朝貢形式の貿易ではあったが、わが国の貨幣流通の発展を促した。京都極楽寺所蔵の絵巻は貿易船が筵帆(むしろぼ)や櫓漕(ろこ)ぎの船であることを伝えている。
豊臣時代には耐航性に優れた朱印船が海外に雄飛して南洋各地に日本人町をつくる勢いであったが、徳川期に入り海外渡航禁止(1635)や大船建造禁止の政策がうちだされると造船技術の発展は完全に阻害されてしまった。大船禁止は五百石以上の軍船、町船(商船)の建造と竜骨や甲板の設置を禁止し、一本マストで運航することを命じた。こうして江戸期を特徴付ける和船が誕生した。西回り航路の北前船(3)、(4)や東回り航路の菱垣廻船・樽廻船といった千石船がその代表である。
富山の北前船(バイ船やベンザイともいわれた)は江戸中期から明治10年代まで放生津、伏木、東岩瀬を拠点に活躍した。大阪から
開国を迫る外国勢に押され江戸幕府は1859年、長崎、横浜、函館を開港した。時代の推移とともに自由貿易が可能な港湾は増え、やがて伏木も特別輸出港となり1899年には開港場に指定された。伏木港の近代化は廻船問屋能登屋に生まれた藤井能三(5)の努力によるところが大である。沖繋(おきがかり)の汽船を着岸させるには庄川・小矢部川を分離改修し、その河口に築港する必要があった。この困難な工事は1913年に完成した。
富山湾は天然の生簀といわれる。とくに湾奥まで回遊するブリ、マグロ、イワシ、ホタルイカなどを漁獲する定置網が発達した。この漁法の成功の影には多くの先人の努力があった。たとえば、麻苧台網(まちょだいあみ)と瓢網(ふくべあみ)を考案した大西彦右衛門(1861)(6)。
13.2「三陸沖を巡航し長者丸次郎吉を偲ぶ」(7)
(元海上保安庁巡視船船長日合武雄氏の講演から)
日本の冬の海は荒れるので有名です。「いな妻や浪もてゆえる秋津島」(蕪村)は荒波に守られて外からは容易に近づき難いわが国の天与の地勢を詠ったものと解釈できます。演者は巡視船の船長としてしばらく日本周辺海域の海上保安業務に携わってきました。あるとき季節風が吹きつのり大時化となった三陸の海で一所懸命に捜索救助をしていました。そのとき、ふと郷土の船乗りのことが頭をよぎりました。長者丸の次郎吉です。
(イ)岩瀬湊における北前船の残光
昔々、越中の西側を流れる射水川の河口付近の台地(現
石瀬野に 秋萩しのぎ 馬並めて 初鳥狩だに せずや別れむ (万葉集)
今年初めての鷹狩を岩瀬野で行うことにしたので、従者ともども馬を並べて射水川を渡り秋の萩の叢を踏み分け岩瀬野に来たが、肝心の獲物は萩に隠れて見当たらず、狩をしないで別れるのは残念だ。
それから千年余り経たのち岩瀬野を流れる神通川の川口より一隻のバイ船が家族に見送られ出帆してゆきました。
その船は長者丸という縁起の良い名を持つ六百五十石の米が積める船でした。
この時、富山藩の御廻米五百石を積んで大阪に向かいました。富山藩では安全のため積載量の八割程度に抑えております。約一ヶ月後の天保九年五月下旬に大阪に着き、富山御蔵役人へ御米を相渡し、同処で綿や砂糖などを買入れて併せて新潟行きの運賃荷物を積込んで出帆しました。同年七月に新潟へ廻り八月中旬に松前湊に着き、乗組み一同は上田屋忠右衛方に止宿しました。
この時の乗組員は次の十人でした。
船頭 富山木町浦 吉岡平四朗 五拾歳計
親司 射水郡長徳寺村 京屋八左衛門 四拾七歳
同 射水郡放生津町 片口屋八左衛門 五拾歳計
岡使(知工ともいう事務会計係)
新川郡東岩瀬田地方 鍛冶屋太三郎 三拾七歳
片表 婦負郡四方 善右衛門 四拾歳余
追廻 射水郡放生津古
同 射水郡放生津
同 新川郡東岩瀬浦方 米田屋次郎吉 二拾六歳
炊 婦負郡四方 五三郎 二拾五歳
同 射水郡放生津
この船の持主は富山古寺町で薬種商を営む七代目能登屋兵右衛門で、薩摩藩入国を許された売薬薩摩組二十六人脚の一人でした。船頭の平四郎は元々の船乗りではなく渡海しながら品物を買付け売渡して利鞘を稼ぐために乗船していました。以前は佐渡や能登方面で売薬に従事した経験もあり、薬も重要な品物の一つでした。この松前で積荷の売却や薩摩向けコンブの買付けに従事しましたが、集荷に手間取り九月中旬漸くコンブ五百石を買付け松前函館で積み込むことになりました。ここで船頭が初めて太平洋経由東廻りを打ち明けました。ふつう北陸地方のバイ船(上方では北前船と呼びました)は年に1~2航海して旧暦九月も過ぎると海が荒れますので、日本海を南下し富山の船なら岩瀬あるいは放生津(新湊)で船仕舞いするか、加賀の船なら地元の河口か、天候次第で大阪まで足を延ばし木津川の支流で船仕舞いをしました。船仕舞いは船喰虫予防の為に陸揚げするか真水の処で繋留しました。
長者丸の船頭平四郎は船主である能登屋兵右衛門から岩瀬出航前に松前でコンブを積んだら東廻りで薩摩の油津か志布志に行くよう指示されていたようです。
当時兵右衛門は薩摩組売薬免許人の一人で
歩高拾歩(売上げの一割上納か)
懸け場 国分 鋪根 〆弐ケ外城
となっております。懸け場とは行商区域のことで、鶴丸城(鹿児島城)を内城とし、領内に百二十三の外城(外郭)がありました。この頃から所謂コンブ・ルートが出来上がっており、
天保九年は四月、閏四月と四月が二回あり松前出航は新暦十一月初めになりますが、懸け場に届ける配置薬や薩摩藩と約束のコンブのことを考えるとできるだけ早く鹿児島に近づきたいとの思いがあったようです。
「時規物語」(後述)によりますと、「放生津の八左衛門義東廻り(南部より江戸までを東廻り申候)渡海は望み申さずの由申し立て、ここにて越後の金六と代り候て、帰村致し候。金六は東廻り巧者ゆえ、道先(道先とは船案内の者を申候)にたのみ、是より一緒に乗組、戌九月下旬か十月上旬頃松前箱館へ着船いたし、ここにて昆布五、六百石目計積込、これより東廻り」とあります。この八左衛門は片口屋八左衛門で金六は親司に次いでの表方として乗組み、四十九歳、越後岩船郡早田村が在所です。北前船の絵馬で帆前の苫屋根の上に立って風見をしているのが表方です。
(ロ)長者丸および北前船につての簡潔な記述
富山商船高等専門学校名誉教授の吉田清三氏は著書「必読北陸の海難に学ぶ」の中で、長者丸の漂流について次のように述べています。
「天保九年(1838)4月西岩瀬浦(
また、同書は北前船について次のように記述しています。
「北前船の定義となると、かねてより多くの研究者によって議論されており定着したものがない。よって、本稿では、瀬戸内海で用いられた弁才船の名称であって、北の海から来る船または、北の海を往来する船という意味であって、近年になって普及したものと解してほしい。北前船は以前のものより構造が頑丈で長さの割合には幅が広く,船首の反りが大きくなって凌波性もよくなった。また、艪に頼ることなく、もっぱら、操帆によるようになったので、漕ぎ手の減少による積載性の改良が出来、多量の荷物を積むので、一見、どんぐりのように見えた。さて、このように廻船の往来が頻繁となれば、当然、海難による損害も大きくなる」
(ハ)知られざる長者丸漂流譚
長者丸の漂流記録としては「蕃談」、「時規物語」、「漂流人次郎吉物語」の3つが主なものといえます。いずれも多くは次郎吉の記憶を頼りに構成されていますが、ここでは当岩瀬田地方(南の農耕地)出身の太三郎と浦方(北の浜辺)出身の次郎吉に光をあてその一端に触れてみます。
「蕃談」
古賀謹一郎著。茶渓こと古賀は開明派の学者でのちに番所調所初代頭取となります。調所はその後開成学校(東大)に、洋学部は明治6年11月に分離して嵯峨寿安(岩瀬出身、明治4年日本人として初めてシベリヤ横断)が教えた東京外語となりました。
この「蕃談」はエトロフ島より江戸に護送された6人の取調べの記録ですが、主として次郎吉の異国における見聞をまとめたもので異国人の人情深さや古賀自身の開国への思いの一端を伺うことができます。
船頭平四郎は「サニイツ」(ハワイ諸島)の「ワホ」(オアフ島)で病死しますが、蕃談では次のように書いてあります。「サンイチ逗留中ニ船頭平四郎病死シテ其処ニ葬ル。土人懇切ナル事限リナシ。葬ニ会シタルモノ老幼男女凡ソ三百人ハカリ也。イツレモ発声シテ啼泣ス。葬ノ様子ハ仏教カ何角カ唱ル者前ニ往キ皆々夫々従ヒ行ク。葬地ニ至リ三百人ハカリノ者銘々ニ鍬ヲ執テ土ヲ棺上ニ掛ルナリ。棺ハ十分丁寧ニスレハ、石ニテ臥棺ト為シ、頭脳手足ヲ夫々ニ納ルル様ニ致シアルナリ。平四郎ヲ葬ルハ事急ニテ木棺也。其製作ハ前ニ云フ如シ。既ニ葬テ墓碣(特立セル立石デ円形ノモノヲ碣トシ方形ノモノハ碑ト云フ)ニ石ハ何レ<アレカイ>-アメリカのことか―ヨリ取寄セ、立派ニ致ス也。今ハ此木ニテ済スヘシトテ、表木ノ如キモノニ平四郎ノ本国実名等委細書付ク。書付ハ次郎吉認タリ」。
それに続いてつぎのような記述もあります。「サンイチニテ風説ニテ聞ケハ、広東ハ只今オッペンノ一件ニテイキリスト合戦(阿片戦争か)最中ニテ、只今広東ニ往テハ混雑シテ日本ニ帰ル事ニハトテモ至ルマシトナリ。天保十一年庚子七月頃マテ、サンイチニ逗留シ、コレヨリイキリスノ商船ニ乗リ、カムシヤツカニ赴ク。コレハ広東ヨリ日本ニカエルル事不便ナルヘキ故ニ、オロシアヨリ日本ニ帰ヘキ評議ニナリタルナリ」。
「時規物語」(時計物語)
江戸に到着した漂民6人は鎖国の禁を破ったとして小石川
嘉永元年10月、最終的に帰郷できたのは岩瀬の太三郎、次郎吉、放生津の六兵衛、金蔵の4人でした。この4人が後に加賀藩の金沢に時計を差し出して、異国の様子を語ります。加賀藩が当時の俊才を集めこれを記録させ、修理した時計とともに藩主に提出したものが本書です。大黒屋光太夫の「北槎聞略」以上の記録と称されるものですが、惜しむらくは前田家尊経閣文庫に永い間眠り続けていました。さいわい昭和43年、池田皓氏の解読編集になる「日本庶民生活史料集成」第5巻、「漂流」章(三一書房)が公刊され、私たちも読むことができるようになりました。本書には「時規物語」だけでなく「蕃談」、「北槎聞略」、「船長日記」等、当時の漂流の記録が集成されており、手元におきたい一冊です。なおこの時規(時計)は、その後富山藩に譲られましたが現在何処にあるのか不明です。
「当初に遊女は居不申ず由にて、左様の場所も見受不申候。隠売婦とか申者有之由に候へ共、是は夫ある女にて、渡世のため、夫も承知にて、おのれの家へ人寄せいたし候へども、外へ知れ候ては、掟に背き候様子にて家入口に夫番いたし候て、外の者入来候を気遣申す由に候」(ハワイで)、「六兵衛、次郎吉、女湯入の日を心づかず罷越、湯に入り候処、女ども多く罷在、六兵衛等の様子を見、小指のもとへ拇の先をあて、是を互に見候て笑申候。何故か合点まえらず候処、後に承り候へば、日本人の陽物小さきと笑いたる由に候」(カムチャッカで)など男女にまつわる記事も散見されます。
「漂流人次郎吉物語」
原本は
つぎは雪国育ちの次郎吉が関心をもったシトカの生活のひとこまです。
「又同所にて雪遊びとして、家の棟より板を敷き、板の上へ雪をあげ、踏付けてつらつらにいたし、男女とも、靴をはき板に乗り、棟より男女とも替り替りに下りるに、上手の者は真っ直ぐにすらすらと下り、下手の者は横へ行き、女などは尻まで出し、おなさけ所出候ても隠す事不相成、大笑い也」
以上3冊の長者丸の記録のほかに忘れてならないのは井伏鱒二の有名な小説「漂民宇三郎」です。この小説は素老生手録本「異国物語」を参考にしたとありますが流石に現代作家の手になるだけあって一気に読める本です。主人公の宇三郎は前書に乗組んではいないので、仮想の人物か次郎吉ではないかとの説もありますが、私は長者丸の11番目に乗組んだ実在の人物のように想われてなりません。これに関連して当地の歴史研究の第一人者である道正弘氏は東岩瀬郷土史会会報47号のなかで次の旨の記述をしています。
「これら漂民を東岩瀬では内緒で河原坊主と呼んでいる。子供のころ祖母から河淵に行ってはいけない、河原坊主に尻を抜かれると脅かされたものであるが、どうも河原は唐=外国=河童に通じ怖く忌まわしい存在だったのかもしれない。あの時代こうした風土で育った宇三郎はシトカから生き残りの6人と一緒に帰郷の船に乗ったものの航海の途中で心が変わり、ハワイに残してきた広東人の恋人オレインのことや、郷に帰っても河原坊主にされたり、義兄の投身を親に告げる辛さを思った。そこで彼は仲間と船長の許しを得て船室に隠れエトロフで上陸せず、ハワイに戻った。帰郷を果たした6人は、宇三郎は越後の金六の舎弟であり松前で乗船したことでもあるし、このことを絶対に口外しないと堅い約束をした」。こうした北前のロマンの風をうけて「漂民宇三郎」を読むと、なお一層の興味がそそられるものです。
また道正氏は昭和初年東
13.3 富山の港
富山湾は能登半島に深く抱かれた海域であるため古くから漁業や天然の良港として使われてきた。多くの河川が流入する海岸には、河口や潟を利用して漁港や貿易港が築かれている。
湾奥には歴史的に由緒ある伏木富山港が存在し、1986年に国際貿易上の特定重要港湾に指定された。同港は伏木地区の伏木港、富山地区の富山港、新湊地区の富山新港の3つの港から成る。万葉の時代から利用され古い歴史をもつ伏木港は小矢部川の河口港として栄えてきたが、最近は万葉埠頭を築造し、国際貿易港としての機能を向上させた。富山港は北前船時代から賑わいをみせた神通川の河口港で沖合に28万トンのタンカー荷役用の施設を有し原油の荷揚げを行っている(2010年現在作業休止状態)。富山新港は新産業都市の指定を受けて1968年に誕生した新しい港である。放生津潟を利用した掘込港湾で臨海工業地帯の中核として発展している。現在はコンテナー輸送時代に対応した多目的国際ターミナルや旅客船バースが整備されている。伏木富山港が取り扱う主な貨物は原油、石炭などのエネルギー資源、コンテナー、スクラップ、アルミのインゴット、木材チップ、原木、中古車などである。
図1に富山新港のコンテナー・ヤードを示す。コンテナーの能率的な荷役にはガントリー・クレーン(図2)が不可欠であるが、これは1時間に30個のコンテナーを積みおろしできる。
図1 富山新港のコンテナー・ヤード 図2 ガントリー・クレーン
コンテナー輸送の出現により港湾労働者を10分の1以下に削減し、取り扱い貨物量を100倍以上の速さで処理できるようになった。現在は1隻あたり6000~8000台のコンテナーを積む大型船が就航しているが、残念ながら富山はその基幹航路上にはない。日本海沿岸のコンテナー定期航路の中心(ハブ港)は韓国の釜山港で、伏木富山港(フィーダー港)は小型コンテナ船で釜山を経由し北米や欧州などの主要港と結ばれている。
伏木外港の建設工事は1990年に開始された。海域に北防波堤(1500m)を築き、地先海面を小矢部川河口の浚渫土砂などで埋め立てる大工事である。1997年には-10m岸壁1バース(埠頭)と-7.5m岸壁1バースが、2006年には-14m岸壁1バースが完工し、万葉埠頭として共用が開始された。整備工事は現在も進められているが、新たに出現した港内には富山湾特有のうねりが侵入する事態が発生したり、築港という大規模海洋工事が漁業環境に影響したり、在来の内港部から外港への機能移転に伴う新たな町づくりなど種々の問題も生まれている。
港湾法: この法律は、交通の発達及び国土の適正な利用と均衡ある発展に資するため、環境の保全に配慮しつつ、港湾の秩序ある整備と適正な運営を図るとともに、航路を開発し、及び保全することを目的とする |
漁港漁場整備法: この法律は、水産業の健全な発展及びこれによる水産物の供給の安全を図るため、環境との調和に配慮しつつ、漁業・漁場整備事業を総合的かつ計画的に推進し、及び漁港の維持管理を適正にし、もって国民生活の安定及び国民経済の発展に寄与し、あわせて豊かで住みよい漁村の振興に資することを目的とする |
13.4 船のはなし
船を見に伏木富山港を訪ねた(2008年)。富山港(富山地区、岩瀬)でロシアの自動車専用船が中古車を積み込んでいた。その隣では中国向けの船が大量のスクラップを積んで出航しようとしている。港の沖を見ると大型の黄色いブイで重油を満載した10万トンのタンカーが荷役を始めた。四方漁港では漁船が疲れた船体を休めている。富山新港(新湊地区)にはチップ専用船、石炭専用船、コンテナー船が入港中だ。浚渫船やクレーン船など作業船もいる。ヨット・ハーバーを覗くと大小様々のクルーザー、ヨット、モーターボートが静かに整然と並んでいる。商船高専の練習船の真っ白い船体が目を引く。海王丸パークに行くとボランテアが帆船海王丸の展帆をしており、対岸には
船はどれも美しい。とくに歴史を経て洗練された帆船や客船は、優れた技術と芸術の建造物(naval architecture)だけあり、バランスがとれて美しく、そのスマートな容姿には高い文化の香りを感じる。
大洋を渡る外航船は、電気をつくることから始めすべてを自分でまかわなければならない。そのためいろいろな設備をもっているが、ここでは富山高専の練習船「若潮丸」搭載の航海計器と海洋観測機器について主なものを紹介する。
(航海計器)
測深儀:海底の深さを測る装置。船底から発射された超音波が海底で反射し
戻る時間を距離に換算する。昔はロープを垂らして測った。
レーダ:マイクロ波を発射して物体からの反射波をブラウン管上に映像化す
る装置。夜間や霧中の航海で使う。
GPS:人工衛星を使った位置決めシステム。以前は太陽や星の高度を計っ
て海上の位置を決めた。
ジャイロスコープ:方位を測る機器。高速で回転するコマの指北作用を利用
する。船には磁気コンパスも常備する。
オートパイロット:指定した進路に船を導く自動装置。以前は人が梶をとっ
ていた。
(海洋観測装置)
CTD : 海水の塩分、水温、水深を計測する装置。ウィンチで2000mまで機器
を投下して連続計測する。
ADCP: 海流観測機器。超音波を発射して水中のプランクトンや懸濁粒子によ
る散乱波から海流を計測する。
波高計:船首から超音波を海面に発射して波高を測る装置。
操船者から見た伏木富山港 伏木富山港は、雪による視界の制限、河川水の流出による港口付近の流れの影響、航路近傍の土砂の堆積、北風による波浪や寄り回り波などのうねりの影響、あいがめに象徴される急進な海底地形と定置網の設置からくる錨地確保の難しさ等、地域の特性を反映した問題点が少なくない。港湾が安全でしかも便利な経済的物流拠点として機能するためには錨地の確保と港湾の十分な水深確保は必須な要件である。漁業と海運、港湾整備と環境、魅力ある水辺空間の創出など海域を総合的に利活用していくためには解決を要する幾多の問題があるが、この点に関連してなすべきことは、県民による横断的な議論の場を増やし、県民のための「みなとづくり」にもっと知恵をだしていくことだと考える。ぜひ安全で魅力ある港をつくり環日本海経済圏の要港として発展したいものである。 (伏木水先人会会長 越前精一氏「富山湾に学ぶ会」資料より) |
まとめ
1 日本海は古くから人や文物が行ききする海の道であった。
2 富山の北前船は江戸中期から明治10年代にかけて活躍した。
3 長者丸の漂流譚に次郎吉の人間力をみることができる。
4 伏木富山港は特定重要港湾として発展している。
5
6 用途によりさまざまな船が存在して富山の港に出入りしている。
7 GPSやレーダは航海技術から発展したものである。
よくある質問
① 埋没林と海底林の違いは何か
(答)魚津の埋没林に対して後から見つかった吉原海岸沖の樹根群を海底林と
いって区別している。呼称の違いには、発見された場所、樹種、年代など地学的遺物としての相違が反映されている。
② 蜃気楼は富山以外でも見られるか
(答)多くの場所で見られる。砂漠の蜃気楼が有名であるが、ロシアの船員に
よると北極海に面したチクシー港(材木積出港)などでも見られるという。
③ 富山で観測された高波の最大は何mか
(答)2008年の高波では伏木地区で9.9mを記録した。
参考文献
(1)金関恕著「日本海」、第9回「大学と科学」公開シンポジウム予稿集
-アジアの古代文明を探る-歴史と水の流れ-、1994
(2)村井章介著「中世の北"海"道」、日本海学の新世紀2-還流する文化と美
角川書店、2002
(3)司馬遼太郎著「菜の花の沖」文春文庫、1987
(4)南原幹雄著「銭五の海」学陽書房、2005
(5)宮口とし廸監修「ビジュアル富山百科」富山新聞社、1994
(6)富山新聞連載記事「富山湾に光を」1981
(7)日合武雄著「三陸沖を巡航して長者丸次郎吉を偲ぶ」、海フェスタとやま
セミナ「海・船・人」資料、2006