第9回「富山で生まれた日本海学」
越後喜紀
9.1 日本海学とは
「環日本海地域と日本海をひとつの循環・共生体系としてとらえ、長い歴史の中で繰り返されてきた循環と共生のシステムに学び、人間と自然とのかかわり、地域間の人間と人間とのかかわりを総合学として研究するもの」と定義されている。日本海学を考える3つの視点は、「循環」と「共生」と「海」である。すなわち、環日本海地域が周期性をもった地球全体の自然環境システムの中で存在しているという循環の視点、環日本海地域における人間と自然との共生、日本海を共有する地域間における人間と人間との共生の視点、環日本海地域において、日本海が果たしてきた役割、意識を問い直し、これからの日本海との関係をみつめるという視点である。研究分野は、①環日本海の自然環境 ②環日本海の交流 ③環日本海の文化 ④環日本海の危機と共生 の4分野である。
9.2 日本海学を生んだ富山
富山県には、日本海学研究の最良の地域としての豊かな自然環境がある。その3つの特色は、①高度差4000mの海、川、里、山を結ぶ水の循環があるということ ②豊かな森をはじめとする自然の恵みを受けた多様な生物が生息する共生のシステムがあるということ ③日本海固有水(深層水)と対馬暖流が織り成す豊饒の海、日本海に面しているということである。
富山県には、いつの時代も日本海に目が向いていた先人たちの交流の歴史があった。例えば、今から約1700年前の弥生時代中期から終末期にみられた四隅突出墳は、出雲と高志(北陸)にしかなく、日本海を通じての交流があったのではないかと考えられている。また、中世には、北条氏のライセンスを得て越前~越中~津軽を航行していた関東御免津軽船があった。当時は、越中の守護所が放生津にあり、奈良興福寺大乗院「雑々引付」によると、1306年「関東御免津軽船二十艘之内随一」の「大船」を経営する「越中国大袋庄東放生津住人沙弥本阿」が越前の三国湊で漂泊船だといって船と荷物(鮭など)を押し取られ、鎌倉幕府に訴えて1320年に和解したという。近世は、北前船の時代である。明治以降は、北前船船主を中心に北洋漁業への進出がみられた。1880年には、サガレン(今のサハリン)島出稼漁業者寄合に新湊の北前船主が参加している。大正期には、樺太~オホーツク海の租借漁区の2割が富山であった。昆布で有名な
9.3 環日本海の自然環境
数千メートルの深層の海流は、温度と塩分の違いによって循環している。北大西洋で沈んだ海水は、約2000年かけて世界の海洋を一巡しており、海洋のベルトコンベアとよばれている。そのミニチュア版が日本海の循環である。日本海では、北上した対馬暖流の一部が冬季の鉛直対流で深部に沈み、逃げ場がないので海底や中間層にたまり、水深200m以下では日本海固有水(深層水)となる。これは、低温で窒素やリンを含み、酸素も豊富であるとともに深層で海流となり、200年をかけて循環している。
日本海側の雪は、対馬海流がもたらす暖かい水蒸気が北西季節風によって運ばれ、山脈にぶち当たって上昇気流となってもたらされる。その雪が豊かな自然と風土(水、植生、生物多様性、人間活動)をもたらす。雪には、6つの環境形成作用(圧力、断熱効果、保湿効果、水分供給、反射・遮光効果、生育期間の短縮)があり、そのひとつである断熱効果が、耐凍性の低い種の高地への侵入・定着を可能にし、植物の多様性をもたらしている。
9.4 環日本海の交流
713年に成立した渤海は、727年以降、日本に34回の渤海使を派遣した。遣唐使の2倍以上の回数である。遣渤海使も13回を数える。渤海使は、冬の北西季節風に乗り、ウラジオストクあたりを出て日本海の沿岸に到着し、夏の南西季節風で能登・加賀・越前から帰国した。能登客院(館)や越前の松原客院が渤海使をもてなす宿舎であった。
京都の祇園祭の山鉾を飾る高級織布の中に、「蝦夷錦」がある。もともと中国の王族や高級役人が身につける絹製の服であった。蘇州、北京、ハルピン、ハバロフスクと山丹貿易によって蝦夷地に運ばれ、さらに松前から北前船で京都まで運ばれた。
9.5 環日本海の文化
日本や環日本海地域は、森林と豊かな自然が残る地域である。ここには、自然を敬い自然そのものが神であるという自然観を持つ民族が多く、アイヌをはじめ少数民族の宝庫でもある。日本には天台密教の究極の理論といわれる「天台本覚論」がある。仏教と神道の総合された考えであり、「山川草木悉皆成仏」という言葉がその特徴を示している。成仏の対象が人間や動物ばかりではなく、植物、鉱物にまで拡大されている。日本人は、食べて自分の体の栄養になるものを「お魚」や「お野菜さん」などとも呼んできた。ここにこれからの環境問題やライフスタイルのヒントがあるのではないか。
9.6 環日本海の危機と共生
(1)海洋汚染
海洋汚染には次の4つがある。① 船の事故によって漏れ出した原油や燃料などによる汚染(1997
年のナホトカ号の重油流出事故など)。② 川や大気に含まれる化学物質による汚染 (農薬など)。③ 川や海に捨てられた生活排水や海洋ごみ(ポリタンク、缶、ビン、ビニールくずなど)や船体の塗料などによる汚染。④ 放射性廃棄物の不法投棄による汚染。国連環境計画(UNEP)事務局長 アヒム・シュタイナー氏は、海は生態系を守る「青い森」と言っているように、大気中の40%のCO2 が海洋環境を通じて循環している。また、生き物が骨格を作るためには、アルカリ性で他の汚染物質が含まれない海水が必要であるが、産業革命始まりにはpH8.16であったものが現在pH8.05に落ちている。肥料や汚水による「酸欠海域」も増えている。こうした中、海洋環境に関して環日本海沿岸諸国が協力体制をとっている。国連環境計画の地域海行動計画として、1994年に日本海と黄海を対象とした北西太平洋地域海行動計画(NOWPAP)が出され、海洋環境保護に関するデーターベースの作成、各国の海洋環境保護に関する法律の調査、海洋環境調査、油汚染などの海洋汚染に対する地域協力、広報活動などを行なっている。日本の地域活動センターは、1997年に設立された環日本海環境協力センターであり、NOWPAPの本部事務局とともに
(2)大気汚染
自動車の排気ガス、対岸の石炭使用などによる硫黄酸化物、窒素酸化物が雨に混ざり、pH5.6以下になった雨・雪を、酸性雨・酸性雪という。日本では平均pH4.5程度である。日本の日本海側の冬には、北東季節風による大陸からの多量の汚染物質の輸送がみられ、降水量が多いために多量の酸性物質が地表へ降下しているデーターがある。
黄砂については、従来、黄河流域及び砂漠(タクラマカン・ゴビ)から風によって砂塵が運ばれてく
る自然現象であると理解されていたが、単なる季節的な気象現象から、森林減少、土地の劣化、砂漠
化といった人為的影響による環境問題としての認識が高まっている。土壌起源ではないと考えられる
アンモニウムイオン、硫酸イオン、硝酸イオンなども検出され、輸送途中で人為起源の大気汚染物質
を取り込んでいる可能性も示唆されている。一方、炭酸カルシウムを含み、酸性雨に含まれる亜硫酸
ガスの酸を中和したり、鉄やリンが海に落ちて栄養を補給する面もあるとの指摘もある。そうした中、
5カ国11自治体64団体の参加による黄砂の視程調査の第1回目が今年3月から5月に行なわれた。
これは、2007年12月に富山で開催された「 北東アジア環境パートナーズフォーラム inとやま」
「とやま宣言」の中で採択された調査である。日本は富山、山形、鳥取の3県31団体が参加し、その
うち
体)であった。
(3)食糧・水の問題
日本のカロリーベースの食料自給率は40%(2007)で、輸入相手国は、アメリカ(22.3%)、中国
(18.4%)(2006)が上位である。その中国も生活水準の向上により消費量が拡大し、農産物輸入量を増やしている。富裕層を中心とした水産物消費量の増大を背景に、マグロの買い付けでは日本が買い負けすることもある。一方、日本の水産業をめぐる現状は、他国200海里からの締め出しによる漁場の縮小、漁業者の減少(1949年の109万人から22万人に減少)、1988年まで世界一であった漁獲量の低下(2004年には第6位)、食用魚介類自給率の低下(2005年には57%)などの数字が示すとおりである。世界中から食料輸入をしている日本の国民一人当たりの食料輸送距離(フード・マイレージ、単位はt・km )は世界一であり、食糧輸送に莫大なエネルギーを消費していることも忘れてはならない。また、仮想水(バーチャルウォーター)の考え方によると、日本は食料とともに大量の水を輸入しているといえる。仮想水とは、食料を輸入している国において、もしその輸入食料を自国で生産するとしたら、どの程度の水が必要かを推定したものである。ロンドン大学東洋アフリカ学科名誉教授アンソニー・アラン氏がはじめて紹介し、日本では東京大学の沖大幹教授らのグループが研究、算出している。小麦1kgで2トン、牛肉1kgで20トン( 飼料作物含む )、全輸入農畜産物に換算すると年間約640億トンの水を輸入していることになる。食料輸入の多いアメリカ合衆国やカナダからの輸入が多く、中国やオーストラリアも輸入先である。一方で、日本人は輸入食料品に対する食の安全や安心には厳しいが、現状をよく把握していない面や、報道にふりまわされ、熱しやすくさめやすい面がある。例えば、「遺伝子組み換えは使用していません」という日本の食品表示は、5%未満の遺伝子組み換え大豆が入っていても使用が許される。つまり、100粒の大豆のうち5粒未満の遺伝子組み換え大豆が入っていても、上記の表示でよいのである。アメリカ大豆の作付面積全体の86%が遺伝子組み換えであり、大豆自給率4%の日本が消費量の75%をアメリカから輸入しているということも現実である。BSE (牛海綿状脳症) や鳥インフルエンザ、冷凍ギョーザ問題などは遠い昔の出来事のようである。食料自給率を向上させることに誰も反対はしない。国を挙げての第1次産業(農林水産業)の見直しが必要だが、現状は厳しい。地産地消による地域の食料自給率の向上は、取り組みやすいのではなかろうか。
(4)資源の問題
携帯電話には19種類のメタル資源が使われている。その中の銅やニッケルの最近の価格推移を見ると急激に高騰している(2007年のデーター)。その背景には、BRICs諸国の高度経済成長による需要増があり、1995~2005年対比で鉄は4倍、銅は7倍、ニッケルは17倍、ボーキサイトは20倍となっている。特に中国のメタル資源消費は世界の25%を占め、銅、鉄、鉛、亜鉛、ニッケル、アルミニウムの消費は世界一である。そのため、さらに需要が伸びる中国は、国際資源メジャーの縄張りに参入しており、有限で偏在する資源をめぐった「メタル・ウォーズ」の状態である。また、資源開発には自然破壊を伴うことも知っておくべきである。採掘準備のための樹木の伐採、表土の掘削、鉱脈にいたるまでの剥岩、「ズリ」の処理、排水処理などにともなう水質汚濁・土壌汚染・土壌浸食、選鉱( 原鉱石から精鉱へ)工程での薬剤使用による水質汚濁、生態系破壊、精錬工程での砒素、硫黄などの有害物質の排出、使用された化学薬品の処理不十分の場合の大気、水質、土壌への汚染、生態系破壊などである。鉱物資源開発は、発展途上国への依存度を増大させており、2030年代にはザンビア、コンゴ民主共和国、南アフリカ、チリ、ペルー、ブラジルの6カ国だけで依存度30%超と予想されている。先住民の生活するさらなる奥地での開発が進み、自然環境破壊はもちろん、強制移住などの先住民の権利侵害、児童労働・劣悪な労働条件、政治・行政・軍の贈収賄による腐敗、資源を資金源とする地域紛争などの問題も付随しておきる。「Out of sight, out of mind」という言葉がある。
9.7 日本海学を通して
日本海および環日本海地域の自然、歴史、文化(衣食住)は、「日本海」の恩恵を受け、1つの「循
環」・「共生」体系の中で存在することが確認できるのではなかろうか。ふるさと富山、日本、環日本海地域、地球の自然環境を守り、住みよい地域にするために、一人ひとり、地域、国がどういう思想(考え)を持ち、行動していけばよいかを考えるきっかけとし、循環型社会・共生する地域の知恵を共有したいものである。
よくある質問
① 黄砂が海に栄養を補給するという証拠は何か
(答)洋上で植物プランクトン生育のために不足している栄養分が鉄で
あり(窒素やリンは充分)、鉄分などミネラルを豊富に含む黄砂粒子はその不足している栄養分の補給になるといわる。最近では、水に溶存する鉄でないと効果がないとの見解もある。そのため、実際外洋上に鉄(硫酸鉄)を撒いてプランクトンの生育や二酸化炭素の海への吸収などについて調べる実験も行われており、鉄を撒いて植物プランクトンの増殖が認められている(衛星からでも検出できている)報告もある。(
② 使い古しの携帯電話からレアメタルの回収は行われているのか
(答)行われている。ほとんどの携帯電話関連企業が参加する
「モバイル・リサイクル・ネットワーク」を通じて回収されている。ちなみに、日本の廃棄物として銅(携帯電話以外も含む)は毎年約10万tで、リサイクル率は約40%である。
③ 北前船貿易が扱った物産品のリストが知りたい
(答)
昆布、鮭、鱒などの海産物や木材。
④ バーチャルウォーターはどのようにして推定するのか
(答)バーチャルウォーターとは、消費国(輸入国)において、もしそれ
を作っていたとしたら必要であった水資源量のことで、東京大学生産技術研究所の沖大幹教授等のグループが試算している。例えば、穀物の場合、典型的な栽培日数に対し、毎日4mm(稲は15mm)分の水が蒸発散や浸透等に必要であり使用されると見なし、灌漑してさらに加える分の水(blue water)のみならず、天水に起因する土壌水分(green water)もここでは消費される水資源として勘案している。求められた使用水量を単位面積当たりの穀物の収量で割ることにより求められる。詳細は、沖研究室のHP(http://hydro.iis.u-tokyo.ac.jp/Info/Press200207/#VW)
⑤ 日本にも金や銀などの金属は産出するのか
(答)日本の金属鉱山は菱刈金山(
金属資源のほぼ全量を海外に依存する状況となっている。菱刈金山は、鉱石1トン中の金量が約40グラムで、現在操業中の金鉱山では世界のトップクラスである。日本の国別金産出量は世界の0.3%で、銀は、統計上産出ゼロである。菱刈金山の銀黒と呼ばれる鉱石中にわずかに含まれる分の産出のみである。
⑥ ほかの環日本海諸国に「日本海学」と類似の学問はあるか
(答)日本海や環日本海地域を対象とする研究は、他の環日本海諸国
でも当然行なわれている。海洋環境や古代の玉文化など、個別のテーマでは共同研究がなされているものもある。循環、共生、日本海の視点を持った「日本海学」というのはない。
⑦ 日本はなぜ食料自給率を高める政策をとらないのか
(答)とっていないわけではない。例えば、食料自給率向上に向けた
国民運動推進事業「FOOD ACTION NIPPON」などがある。食料自給率低下の要因には、戦後日本の食生活の洋風化(自給率ほぼ100%の米の消費が減り、自給率の低い畜産物、油脂の消費が増加)、飽食と呼ばれる食生活、日本の農業の構造的脆弱さ(国土の狭さや零細経営など)、貿易自由化の影響などがあり、それらが複雑にからみあっているので、解決については一筋縄には行かない。