第14回「海洋観測と技術」
石森繁樹
14.1 海洋観測
海を知る最良の方法は海を観測することであろう。海の観測といえば流速を測るものや水温、塩分、透明度など海水の特性を知るものが代表的だが、目的によって様々な観測が行われる。海洋観測指針(1)には、採水と測温、測流、海水の透明度と水色、測深、海洋の底質と地殻、海水の化学分析、海洋生物、海洋の放射能、波浪、潮汐、津波と高潮、海氷の測定について総論、測定方法、測定機器、計算方法、観測結果の整理、原簿の記載法など詳細な記述がある。
富山湾の海流はどうなっているのだろうか。図14.1は電磁海流計(GEK、Geomagnetic Electro Kinematograph)により流れを観測した例(2)である。1974年4月から7月にかけて実施した10回の観測値を一枚の図に描いてある。湾内33点での平均流速は0.54ノット(標準偏差0.20ノット)、最強1.0ノットで、いずれも湾奥に向かう南流成分をもっていた。北部海域の観測が抜けているので富山湾全体の海流像にはなっていないが他機関の観測と同じ傾向を示している。GEKの測定原理はなかなか面白く、地球磁場の中で電極をつけた電線を曳航し発生する起電力(ファラデーの電磁誘導の法則、ローレンツ力)から流速を知るものである。実際の海流を測定するには船を直交する2つのコースで反転往復して走らせる必要がある。
図14.1 GEK観測(1974) 図14.2 能登半島付近の海流
図14.2は音波を利用した海流計ADCP(Acoustic Doppler Current Profiler)で計測された流れ(3)を示している。輪島沖の海面下20mにおいて0.6~0.7ノットの東流がみられるが流速は場所により大きく変化している。ADCPの測定原理(4)は、船底に取り付けられたトランスデューサから超音波(例えば150kHz)のパルスを送信し水中のプランクトンや粘土粒子などの微粒子が散乱する音波を同じトランスデューサで受信する。散乱体がトランスデューサの方向に近づけば受信波の周波数は送信波の周波数より増加し、その差であるドップラーシフトが得られる。散乱体となる微粒子がその場の流れに身をまかせて流されるものとすれば、ドップラーシフトから音源に相対的な流れを求めることができる。散乱体からの受信波はレイリー散乱と考えられる。音波の波長が約1cmであるのに対して散乱体の大きさは1~100μmのオーダーと見られるからである。図14.3はアルゴス・ブイの漂流軌跡である。1997年1月のナホトカ号重油流出事故に際して海上保安庁が放流したブイの軌跡で、流れの状況をわかりやすく教えている。このシステムは海面のブイに抵抗体(穴があいた円筒)を吊り下げ、ブイが発信する電波をNOAA衛星で受信し位置を計算して表層の流動を求めるものである。1月12日に沈没推定海域で3個、1月16日に能登半島先端付近で1個が投入されたが4個とも個性的に流れているのが印象的である。能登半島先端からのブイは南から南東へ流れ、直径約40kmの反時計回りの輪を3度描いて糸魚川の海岸に漂着した(2月10日)。このブイの軌跡を見ると、重油が富山湾に侵入しなかった理由は、タイミングよく吹きだした南西風によるものと納得できる。漂流ブイは風の直接的な影響を少なくするため抵抗体の中心が海面下15mになるよう設計されている。
図14.3 アルゴス・ブイの漂流軌跡 (海上保安庁 1997.1)
以上富山湾で実施してきた流れの観測例を2、3述べたが測流ひとつとっても多様な方法がある。
ここで、海洋観測に関する話題を2つ紹介する。
ひとつはアルゴ計画(Argo project)である。海洋と気候の関係を理解し、気候の予測を行うには世界の海洋の状況把握が不可欠である。本計画は中層フロート(図14.4)を世界の海に3000個投入して全海洋を常時観測するシステムとして国際協力の下で推進されている。2006年2月時点で2151個の中層フロートが投入されている(図14.5)。ブイは海面から深さ2000mまでの間を自動的に浮き沈みしながら水温と塩分を観測し、衛星経由でデータを配信している。データは誰もが自由に使用でき、海洋内部の水温や塩分の分布状況、中層フロートが流れる深度の流れの把握などに利用されている。
図14.4 アルゴ計画と中層フロート(気象庁)
図14.5 中層フロートの運用状況 (気象庁)
つぎは、TAO/TRITON海洋観測網(図14.6)である。これは係留ブイを熱帯域に展開し、エル・ニーニョ現象解明のため広域の気象・海象を計測するものである。わが国は西部海域に20基のトライトン・ブイ(Triton buoys)(図14.7)を設置して、風、気温、湿度、降水量、日射量、および水温、塩分、流速を観測している。
図14.6 TAO/TRITONブイ観測網
図14.7 トライトン・ブイ (JAMSTEC)
14.2 リモートセンシングによる海洋観測
気象の分野では観測衛星が大活躍している。最初の人工衛星スプートニクの打ち上げ(1957)から3年後にはタイロスが地球の雲の映像を送ってきた。いまから見るとお粗末なテレビ画像であるが、大気・海洋・大陸を総観する新たな視点を与えた意義は大きかった。その後も矢継ぎ早に各種の衛星が打ち上げられ、わが国では1977年に静止気象衛星「ひまわり」が赤道上空からの観測を始めた。海洋に関しては気象衛星に10年遅れ海洋観測衛星「もも」の検証実験が開始された(1987)。「もも」には可視・近赤外センサー(MESSR)、熱赤外センサー(VTIR)、マイクロ波センサー(MSR)が搭載され、富山湾においても水温や透明度などについて衛星観測の有効性を検証する実験(5)が行われた。海洋科学に衛星観測の展望を開いたシーサット(1978)は合成開口レーダ、散乱計、高度計、放射計など各種センサーを搭載しマイクロ波による海洋観測を実施した。この衛星はわずか3ヶ月の寿命で終わったが海上風、波高、波スペクトル、海面トポグラフィーについて有用な結果をもたらした。こうして雲のあるなしにかかわらず観測できるマイクロ波センサーは海洋衛星観測の主役として以後の観測衛星に継続的に搭載されることになった。例えば高分解能映像レーダである合成開口レーダはEERS、JERS、RADARSAT、ALOS(だいち)などの衛星に搭載され全世界の陸面・海面の画像を取得している。筆者らは富山湾の波浪観測に合成開口レーダ・データを適用してその有効性を検証する実験(6)を行った。その結果、「寄り回り波」のようなうねり性の波について広域の波向、波長など有用な情報が得られることを確認した。波浪については現在気象庁が数値モデルによる沿岸波浪予報を実施しているが、上記の衛星画像はこの沿岸波浪図と比較してはるかに詳細な情報を含んでいる。衛星観測には広域の観測がほぼ同時に行えること、陸から遠く離れたどんな海域でも観測できること、同一地域を繰り返し観測できることなどの利点がある。ただし、可視・近赤外センサーはマイクロ波とは異なり雲があれば海面観測は不可能である。
観測データから実海域の物理量たとえば水温を推定するには船を動員して現場で実測した表皮水温との照合が必要となる。わが国が打ち上げたADEOSⅡにはクロロフイル計測センサーが搭載されたが、クロロフイル量の推定にも同様の手続きが必要である。このように海洋リモートセンシング技術の向上には衛星観測に同期して現場観測を行い(sea truth)衛星データを海上データに回帰的に適合させる照合検証を重ねることが不可欠である。検証実験により物理量推定についての確実な知見が得られたときはじめて、衛星海洋観測は実用の段階を迎えることになる。よく指摘されるように海洋は未知な点が多い。その最大の原因は海が近づきがたく、海上観測が容易でないことである。気象学の分野で人工衛星データが導入されて天気予報の精度が格段に進歩したように、海洋学の発展のためにもリモートセンシング技術の利用を促進することが肝要であろう。そのためには衛星観測に同期して現場海域における基礎データを多数収集することが必要である。一般的に現場観測は船を使用して実施されるが衛星の観測に合わせて船を運航することは容易でないし、近づきうる海域にも限界がある。そこで期待されるのが高い機動性と計測能力を備えた観測ロボット船の開発である。
14.3 レーダ(SAR)を用いた海洋波の観測
レーダは電波(マイクロ波)を発射して目標から帰る電波を受信するものであるが、受信波の中の信号の大きさは目標の物体表面が電磁波を散乱する能力に比例する。この能力は目標物体の後方散乱係数といい、慣習によってσで表す。σは表面の電気的な性質と形状、とくに表面の粗さで決まる。人工衛星に搭載されるレーダに合成開口レーダ(SAR、Synthetic Aperture Radar)がある。レーダはアンテナの大きさで分解能が決まるのであるが、衛星には大きなアンテナは積めないから高速飛行を利用して、あたかも長大なアンテナを搭載しているかのように工夫されたのがSARである。
SARで波浪が観測される理由は次のとおりである。マイクロ波は海面に当たると水中に入りこめず表面で散乱する。この海面散乱の立役者は「さざなみ」であるというのが現在の電波海洋学の基本になっている。海面にさざなみがあればマイクロ波の波長に共鳴する波がどこかにあるはずで、そこでは干渉がおこって強く散乱する。このような散乱は海面を回折格子とみなすのでブラッグ散乱といえる。風が吹けばさざなみが立つ。さざなみが立てば散乱が強まりσが大きくなってSAR画像の輝度が増す。
次は波浪とさざなみの関係である。海面にうねりがあるとする。うねりの山と谷にある水粒子は楕円運動をするが山と谷では回転の方向が反対である。そのために、谷から山への部分と山から谷への部分には表面で水粒子が発散するところと収束するところができる。発散するところにあるさざなみは小さくなり、収束するところのさざなみは大きくなる。さざなみの振幅の増減はσにはねかえる。いってみれば、さざなみがうねりの波面あるいは位相に印をつけ、SAR画像に波が映るというわけである。この他にも、波浪による水面傾斜とレーダ波の入射角が異なるためσに違いが生じたり、水粒子運動が山と谷で違うことがドップラー効果を生みσの変調をきたす。また、うねりの進行方向と風向あるいは衛星の飛行方向の関係もレーダ映像に影響を与える。
(1) 寄り回り波の観測
富山湾沿岸で古くから知られた「寄り回り波」は低気圧の通過後2、3日経過して天気が回復したころに現れる高波で、湾内の特定箇所で波高が一段と高くなるといわれる。図14.8は1993年3月17日から18日にかけて発生した寄り回り波を映した、ヨーロッパ宇宙連合が打ち上げた人工衛星ERS-1 の合成開口レーダSAR画像(6)である。ERS-1 SARは周波数5.3 GHz(Cバンド,波長5.66cm)の電波(VV偏波)を入射角23°で海面にあて、さざなみで散乱された電波から地上走査幅100km、分解能15m の高解像映像を取得するものである。ちなみに衛星ERSの高度は785kmである。衛星の観測に同期して実海面データを収集した。富山商船高等専門学校練習船<若潮丸>および
図14.8 ERS-1 SAR画像 富山湾(1993.3.18)
図14.9 ERS-1 SAR画像(海老江)
(2) SAR画像上の「寄り回り波」の特徴
「寄り回り波」を富山湾全体の現象と考えれば、富山湾のスケールで観測しないとその特徴は把握できない。富山湾全体を映した図14.8と湾奥部を拡大した図14.9により「寄り回り波」の特徴抽出を試みた。映像上の各種パターンを判読し特徴をまとめると、
(イ)二方向からの波が湾中央部で交差している様子がみられるが、その交角は
小さい。外から伝播してくる波浪の角分散や波源の移動などを考慮すると卓越波の波向はきわめて揃っている。
(ロ)北からくるうねり性の波は黒部川河口から東部沿岸に沿いまっすぐ南下
し、波峰線は海岸線にほぼ直交する。黒部川河口付近で水深が急降下するため波浪に対して海底の影響が働かないためと考えられる。
(ハ)北から進入するうねりの場合,大きな波群は先に滑川方面に到達し、その後
西に回りこむように伝播する。
(ニ)波が高くなる射水市海老江沖で波が屈折するのが認められる。富山湾奥は
弓なりの単調な海岸線が続くが、海底では岬(海脚)あり、入り江(海谷)ありのたいへん複雑な地形である。ふつう海岸は岬-入り江-岬-とつづき、岬では波が高く、入り江は波の静かな浜の所が多い。海老江の沖はちょうど海中の岬の部分にあたり、波が屈折してエネルギーが集中するため、波が高くなると考えられる。ほかにも複雑な海底地形を反映した波の変形模様がみられる。
(ホ)大陸棚がやや発達した湾西部において波峰線が海岸線と平行に変化する。
上記のように「寄り回り波」には災害をひきおこす厄介な面があるが、波と波に伴う流れは、沿岸水を撹拌し海藻はじめ海中生物に対して酸素や栄養塩類の供給を促進するとともに、浮泥を除去し海藻の掃除をするなど、沿岸の水中環境をリフレッシュする大切な働きのあることも認識する必要がある。
14.4 光学センサーによる水温の観測
海面水温は大気・海洋相互作用を示す指標として重要であるので、人工衛星による観測研究がNOAAに搭載された熱赤外放射計を使用して精力的に進められてきた。ここではMOS-1の可視・熱赤外放射計VTIRによる水温推定(5)について述べる。VTIRは大気の窓領域に11μm帯と12μm帯の2つのバンドをもつセンサーである。大気がこれらの放射にたいして完全に透明であれば衛星が観測する放射強度を輝度温度に換算するだけで海面温度が求められるが、水蒸気による吸収やエアロゾルによる散乱を受けるため補正が必要である。気象衛星で大気の鉛直温度構造を推定するときは海面温度がノイズになるが、海洋衛星で海面温度を推定するときは大気が邪魔になる。大気補正法としては赤外域の2バンドを利用するスプリット・ウィンド法が一般的である。次式は筆者らが求めた海面水温推定アルゴリズムである。
TS =T3+0.62(T3-T4)+(T3-T4+0.4)sec(SZA)
ここでTSは海面水温、T3、T4 はバンド3、バンド4で得られた輝度温度、SZAは人工衛星の天頂距離である。この式の第2項目は大気中の水蒸気の効果を補正するもので、第3項目は大気の光路長(衛星と海面間に介在する大気の質量)に起因する誤差を補正するものである。式の導出は、2つの波長帯の吸収が水蒸気によることから放射伝達の方程式を TS-T3=a(T3-T4)+b と簡単化し、大気の透過率と分光放射輝度を算出するコンピュータ・プログラムLOWTRAN6によるシミュレーションをおこない最小自乗法で係数を決定して求めた。図14.10に本実験の推定値と実測値の比較を示す。推定式のバイアス誤差は0.32 Cで海面水温をやや低めに推定し、RMS誤差は僅かに劣化し1.01 Cであった。推定精度としてはVTIRの温度分解能が0.5 Kであることから海面水温の推定に十分適用できる結果と考えられる。
図14.10 海面水温推定アルゴリズムの精度
14.5 海洋リモートセンシングと現場観測
海洋リモートセンシングの最大の利点は広範囲の海を瞬時に観測できることである。100km四方の富山湾規模の波浪や海面水温の観測を数秒で行えることはまさに驚異的である。しかしこの方法は電磁波を利用して遥か上空から厚い大気の層を通して海洋を<はかる>技術であるために難しい問題も多くかかえている。たとえばレーダ波と海洋波浪との相互作用といった基礎的な物理過程の解明や可視・赤外線の大気補正の問題などである。このような問題を解決するためには現場の海上で観測を行うことが必要である。衛星から海の波をはかるときには波高、周期、波向などの海象要素(これをパラメータといおう)の他にさざなみの状況や海上風、海面水温を記録しておくと「衛星観測が何をはかっているか」を推定するとき役立つ。ところで衛星観測と海上観測の性格の違いを明確にしておきたい。ひとつの違いは伝統的な海上観測がピン・ポイントにおける観測を原則とするのに対して、衛星観測はセンサーの瞬時視野角内の積分値を観測する。したがって、海上観測はパラメータの局所的な精細観測に向いているが、パラメータの勾配を検出することは不得手である。これに対して衛星観測は点情報を平均し面情報として海をはかるので海面水温の絶対値測定は苦手であるが、規模の大きな現象の把握に向いている。海洋パラメータの空間変動についてさらに理解が進めば「海が渦で満ちている」ことを示す海の天気図が現われるであろう。波浪のSAR映像は広がりのある空間に存在した波浪パラメータの統計値が可視化されたものであるが、今後は内部波などこれまで見えにくかった現象がパターンとして可視化されることも多くなるだろう。両観測のもうひとつの違いは、海上観測が直接的で衛星観測が間接的であることである。大気補正における現場観測の重要性については前述したが、海面観測データは大気補正モデルを使った計算結果の検証に不可欠であるし、衛星データとの間に回帰的なあてはめをおこなえば簡易な大気補正手法となる。
衛星観測に同期した現場観測を実施する場合は目的を明確にして綿密な計画を立てる必要がある。海洋の現象は陸の事象と異なり時間的に変動するので決められた一定時間にシートルースを実施しなければならない。衛星運航センターに観測リクエストを出したら簡単に予定変更できないことを念頭において、とくに船の運航をともなう海上観測は人員の配備、観測機器の整備、予備試験、作業手順など十分に打ち合わせて準備をしなければならない。
現場観測の実効性を向上させるためには、現場における観測機器を衛星観測に対応させ放射観測を取り入れていく必要がある。たとえば衛星はまさに海面水温を観測しているが、現場ではいわゆるバルク水温を観測することが多い。やはり放射温度計で表皮水温を計測したいものである。クロロフイル観測についても海面での放射計による色測定がほしい。現場において手軽に使える放射計や輝度計の開発が待たれる。
前項において衛星観測データと現場観測データとの間にはもともとサンプリング時点からミスマッチがあると述べたが、さらに両データを比較するときに空間サンプリングの間隔が問題になる。できるだけ広域のデータ・ベースを得るには広域のトルース・データをとる必要がある。海洋リモートセンシングにおける現場観測の課題のひとつである。
リモートセンシング技術を海洋に適用するにはまだ時間が要るようであるが、その将来性は衆人が期待するところである。衛星から海を測るのに海での観測が必要であるというのもおかしな話であるが、いましばらくは当技術の発展のために現場海域におけるシートルース・データが必要とされるだろう。これも地球観測を大きく飛躍させる産みの苦しみと捉えたい。
まとめ
1 海の観測は海を知る最良の方法である。
2 海の流れを観測するにも種々の方法がある。
3 海洋と気候の関係を知るために地球規模のアルゴ計画やTAO/TRITON
観測網がある。
4 海洋観測手法の一つにリモートセンシングがある。
5 人工衛星搭載の合成開口レーダを用い富山湾全域のおける寄り回り
波の観測が行われ、SAR画像上の特徴が抽出された。
6 光学センサーVTIRの検証実験により海面水温の推定に十分な結果が
得られた。
7 海洋リモートセンシングの現状では現場観測(sea truth)が欠か
せない。
よくある質問
1 航海ではどのようなレーダを使用しているか
(答)レーダは闇の中でも霧の中でも物を見ることができる。他船や
陸岸などの距離と方向を知る舶用レーダにはXバンド(10GHz、3cm)やSバンド(3GHz、10cm)のマイクロ波が多く使われる。
2 海で漂流したらどうすればよいか
(答)必ず助かるという強い精神力をもつこと。沈没を避ける工夫をす
る、自分の位置を考え、岸に近づく努力をする、体温の低下を防ぎ、力の消耗を避ける、食料と水(海水1に真水2の水割りまで大丈夫)の使い方を考える、釣りや雨水を溜めて食料や飲料水の確保に努める、旗、音、煙などSOSの信号を発する等など、その場の状況を適切に判断して行動する。生物学的に強い人間力を信じ最後の1秒まで生きること。
3 ジャイロコンパスはなぜ北を指すのか
(答)ジャイロコンパスはひとつの軸の周りに高速で回転するコマを
第2および第3軸のまわりに自由に旋回できるように、枠を用いてコマを重心で支えた装置で、コマの軸を直接支える枠には錘を吊るしてある。コマの軸が南北方向からそれると地球自転のため軸に偶力が働き常に南北を指すようになる。
ジャイロコンパスの指北原理については、山内恭彦「大学演習 力学」、裳華房、p.261 などを参照されたい。
参考文献
(1)気象庁編「海洋観測指針」日本気象協会、1988
(2)松平一昭、斉藤郁博、佐藤寛之、楠元達也著「富山湾の海流と
水温」富山商船高等専門学校卒業研究報告、1974
(3)石森繁樹著「油の漂流予測」富山商船高等専門学校公開シンポジ
ウム『ナホトカ号油流出事故に関連して』講演集、1997
(4)石森繁樹著「新若潮丸のADCPシステムについて」富山商船高等
専門学校研究集録第9号、1996
(5)Ishimori,S.,et al. Case Study of Earth Observation Using
MOS-1: (1)Color of Sea and Transparency,(2)SST,(3)Actual Vegetation, The Third Symposium on MOS-1 Verification Program, EOC/NASDA, 1989
(6)Ishimori,S.,et al. On the Image of the "Yorimawari-nami"
by Synthetic Aperture Radar, Final Report of JERS-1/ERS-1 System Verification Program, MITI/NASDA, 1995
第13回「富山湾―海に生きる人と暮らし」
石森繁樹
13.1 海に生きた人の歴史点描
日本海は古代から人や物や文化のやりとりがおこなわれる海の道であった。金関恕によれば縄文時代に大陸から玉製の耳飾、漆塗り土器、青銅製の小刀、鼎が伝わり、弥生時代には稲作技術をはじめさまざまな文化が海を越えて伝来した(1)。
わが国が律令国家になる前は、7世紀初頭の遣隋使や630年から始まる遣唐使が盛んに唐の文物を移入した。8~9世紀には渤海使がたびたび日本海を往来した。わが国と親善関係を結ぶための外交折衝であったが、文化・文物の交流に寄与した。
日本最古の海事法規集「廻船式目」には13世紀初頭の主な港として三津七湊(さんしんしちそう)の名がある。三津は伊勢の安濃津、筑紫の博多津、泉州の堺津、七湊は越前の三国湊、加賀の本吉港、能登の輪島湊、越中の岩瀬湊、越後の今町湊、出羽の秋田湊、津軽の十三湊のことである。中世に栄えた港はほとんど日本海沿岸にあった。村井章介(2)は中世の北・海・道(北陸道に対比して)の豊かさについて、越中の放生津が鎌倉時代から北条氏ゆかりの海運業者が居を構える交易拠点であったこと、後醍醐の皇子宗良親王(1341~1344)や将軍足利義材(1493~1498)の長期滞在、加賀の宮腰(みやのこし)が野々市の守護所に近く経済の要所であったことなど興味ある論述をしている。
室町時代には明との間に勘合貿易があった。朝貢形式の貿易ではあったが、わが国の貨幣流通の発展を促した。京都極楽寺所蔵の絵巻は貿易船が筵帆(むしろぼ)や櫓漕(ろこ)ぎの船であることを伝えている。
豊臣時代には耐航性に優れた朱印船が海外に雄飛して南洋各地に日本人町をつくる勢いであったが、徳川期に入り海外渡航禁止(1635)や大船建造禁止の政策がうちだされると造船技術の発展は完全に阻害されてしまった。大船禁止は五百石以上の軍船、町船(商船)の建造と竜骨や甲板の設置を禁止し、一本マストで運航することを命じた。こうして江戸期を特徴付ける和船が誕生した。西回り航路の北前船(3)、(4)や東回り航路の菱垣廻船・樽廻船といった千石船がその代表である。
富山の北前船(バイ船やベンザイともいわれた)は江戸中期から明治10年代まで放生津、伏木、東岩瀬を拠点に活躍した。大阪から
開国を迫る外国勢に押され江戸幕府は1859年、長崎、横浜、函館を開港した。時代の推移とともに自由貿易が可能な港湾は増え、やがて伏木も特別輸出港となり1899年には開港場に指定された。伏木港の近代化は廻船問屋能登屋に生まれた藤井能三(5)の努力によるところが大である。沖繋(おきがかり)の汽船を着岸させるには庄川・小矢部川を分離改修し、その河口に築港する必要があった。この困難な工事は1913年に完成した。
富山湾は天然の生簀といわれる。とくに湾奥まで回遊するブリ、マグロ、イワシ、ホタルイカなどを漁獲する定置網が発達した。この漁法の成功の影には多くの先人の努力があった。たとえば、麻苧台網(まちょだいあみ)と瓢網(ふくべあみ)を考案した大西彦右衛門(1861)(6)。
13.2「三陸沖を巡航し長者丸次郎吉を偲ぶ」(7)
(元海上保安庁巡視船船長日合武雄氏の講演から)
日本の冬の海は荒れるので有名です。「いな妻や浪もてゆえる秋津島」(蕪村)は荒波に守られて外からは容易に近づき難いわが国の天与の地勢を詠ったものと解釈できます。演者は巡視船の船長としてしばらく日本周辺海域の海上保安業務に携わってきました。あるとき季節風が吹きつのり大時化となった三陸の海で一所懸命に捜索救助をしていました。そのとき、ふと郷土の船乗りのことが頭をよぎりました。長者丸の次郎吉です。
(イ)岩瀬湊における北前船の残光
昔々、越中の西側を流れる射水川の河口付近の台地(現
石瀬野に 秋萩しのぎ 馬並めて 初鳥狩だに せずや別れむ (万葉集)
今年初めての鷹狩を岩瀬野で行うことにしたので、従者ともども馬を並べて射水川を渡り秋の萩の叢を踏み分け岩瀬野に来たが、肝心の獲物は萩に隠れて見当たらず、狩をしないで別れるのは残念だ。
それから千年余り経たのち岩瀬野を流れる神通川の川口より一隻のバイ船が家族に見送られ出帆してゆきました。
その船は長者丸という縁起の良い名を持つ六百五十石の米が積める船でした。
この時、富山藩の御廻米五百石を積んで大阪に向かいました。富山藩では安全のため積載量の八割程度に抑えております。約一ヶ月後の天保九年五月下旬に大阪に着き、富山御蔵役人へ御米を相渡し、同処で綿や砂糖などを買入れて併せて新潟行きの運賃荷物を積込んで出帆しました。同年七月に新潟へ廻り八月中旬に松前湊に着き、乗組み一同は上田屋忠右衛方に止宿しました。
この時の乗組員は次の十人でした。
船頭 富山木町浦 吉岡平四朗 五拾歳計
親司 射水郡長徳寺村 京屋八左衛門 四拾七歳
同 射水郡放生津町 片口屋八左衛門 五拾歳計
岡使(知工ともいう事務会計係)
新川郡東岩瀬田地方 鍛冶屋太三郎 三拾七歳
片表 婦負郡四方 善右衛門 四拾歳余
追廻 射水郡放生津古
同 射水郡放生津
同 新川郡東岩瀬浦方 米田屋次郎吉 二拾六歳
炊 婦負郡四方 五三郎 二拾五歳
同 射水郡放生津
この船の持主は富山古寺町で薬種商を営む七代目能登屋兵右衛門で、薩摩藩入国を許された売薬薩摩組二十六人脚の一人でした。船頭の平四郎は元々の船乗りではなく渡海しながら品物を買付け売渡して利鞘を稼ぐために乗船していました。以前は佐渡や能登方面で売薬に従事した経験もあり、薬も重要な品物の一つでした。この松前で積荷の売却や薩摩向けコンブの買付けに従事しましたが、集荷に手間取り九月中旬漸くコンブ五百石を買付け松前函館で積み込むことになりました。ここで船頭が初めて太平洋経由東廻りを打ち明けました。ふつう北陸地方のバイ船(上方では北前船と呼びました)は年に1~2航海して旧暦九月も過ぎると海が荒れますので、日本海を南下し富山の船なら岩瀬あるいは放生津(新湊)で船仕舞いするか、加賀の船なら地元の河口か、天候次第で大阪まで足を延ばし木津川の支流で船仕舞いをしました。船仕舞いは船喰虫予防の為に陸揚げするか真水の処で繋留しました。
長者丸の船頭平四郎は船主である能登屋兵右衛門から岩瀬出航前に松前でコンブを積んだら東廻りで薩摩の油津か志布志に行くよう指示されていたようです。
当時兵右衛門は薩摩組売薬免許人の一人で
歩高拾歩(売上げの一割上納か)
懸け場 国分 鋪根 〆弐ケ外城
となっております。懸け場とは行商区域のことで、鶴丸城(鹿児島城)を内城とし、領内に百二十三の外城(外郭)がありました。この頃から所謂コンブ・ルートが出来上がっており、
天保九年は四月、閏四月と四月が二回あり松前出航は新暦十一月初めになりますが、懸け場に届ける配置薬や薩摩藩と約束のコンブのことを考えるとできるだけ早く鹿児島に近づきたいとの思いがあったようです。
「時規物語」(後述)によりますと、「放生津の八左衛門義東廻り(南部より江戸までを東廻り申候)渡海は望み申さずの由申し立て、ここにて越後の金六と代り候て、帰村致し候。金六は東廻り巧者ゆえ、道先(道先とは船案内の者を申候)にたのみ、是より一緒に乗組、戌九月下旬か十月上旬頃松前箱館へ着船いたし、ここにて昆布五、六百石目計積込、これより東廻り」とあります。この八左衛門は片口屋八左衛門で金六は親司に次いでの表方として乗組み、四十九歳、越後岩船郡早田村が在所です。北前船の絵馬で帆前の苫屋根の上に立って風見をしているのが表方です。
(ロ)長者丸および北前船につての簡潔な記述
富山商船高等専門学校名誉教授の吉田清三氏は著書「必読北陸の海難に学ぶ」の中で、長者丸の漂流について次のように述べています。
「天保九年(1838)4月西岩瀬浦(
また、同書は北前船について次のように記述しています。
「北前船の定義となると、かねてより多くの研究者によって議論されており定着したものがない。よって、本稿では、瀬戸内海で用いられた弁才船の名称であって、北の海から来る船または、北の海を往来する船という意味であって、近年になって普及したものと解してほしい。北前船は以前のものより構造が頑丈で長さの割合には幅が広く,船首の反りが大きくなって凌波性もよくなった。また、艪に頼ることなく、もっぱら、操帆によるようになったので、漕ぎ手の減少による積載性の改良が出来、多量の荷物を積むので、一見、どんぐりのように見えた。さて、このように廻船の往来が頻繁となれば、当然、海難による損害も大きくなる」
(ハ)知られざる長者丸漂流譚
長者丸の漂流記録としては「蕃談」、「時規物語」、「漂流人次郎吉物語」の3つが主なものといえます。いずれも多くは次郎吉の記憶を頼りに構成されていますが、ここでは当岩瀬田地方(南の農耕地)出身の太三郎と浦方(北の浜辺)出身の次郎吉に光をあてその一端に触れてみます。
「蕃談」
古賀謹一郎著。茶渓こと古賀は開明派の学者でのちに番所調所初代頭取となります。調所はその後開成学校(東大)に、洋学部は明治6年11月に分離して嵯峨寿安(岩瀬出身、明治4年日本人として初めてシベリヤ横断)が教えた東京外語となりました。
この「蕃談」はエトロフ島より江戸に護送された6人の取調べの記録ですが、主として次郎吉の異国における見聞をまとめたもので異国人の人情深さや古賀自身の開国への思いの一端を伺うことができます。
船頭平四郎は「サニイツ」(ハワイ諸島)の「ワホ」(オアフ島)で病死しますが、蕃談では次のように書いてあります。「サンイチ逗留中ニ船頭平四郎病死シテ其処ニ葬ル。土人懇切ナル事限リナシ。葬ニ会シタルモノ老幼男女凡ソ三百人ハカリ也。イツレモ発声シテ啼泣ス。葬ノ様子ハ仏教カ何角カ唱ル者前ニ往キ皆々夫々従ヒ行ク。葬地ニ至リ三百人ハカリノ者銘々ニ鍬ヲ執テ土ヲ棺上ニ掛ルナリ。棺ハ十分丁寧ニスレハ、石ニテ臥棺ト為シ、頭脳手足ヲ夫々ニ納ルル様ニ致シアルナリ。平四郎ヲ葬ルハ事急ニテ木棺也。其製作ハ前ニ云フ如シ。既ニ葬テ墓碣(特立セル立石デ円形ノモノヲ碣トシ方形ノモノハ碑ト云フ)ニ石ハ何レ<アレカイ>-アメリカのことか―ヨリ取寄セ、立派ニ致ス也。今ハ此木ニテ済スヘシトテ、表木ノ如キモノニ平四郎ノ本国実名等委細書付ク。書付ハ次郎吉認タリ」。
それに続いてつぎのような記述もあります。「サンイチニテ風説ニテ聞ケハ、広東ハ只今オッペンノ一件ニテイキリスト合戦(阿片戦争か)最中ニテ、只今広東ニ往テハ混雑シテ日本ニ帰ル事ニハトテモ至ルマシトナリ。天保十一年庚子七月頃マテ、サンイチニ逗留シ、コレヨリイキリスノ商船ニ乗リ、カムシヤツカニ赴ク。コレハ広東ヨリ日本ニカエルル事不便ナルヘキ故ニ、オロシアヨリ日本ニ帰ヘキ評議ニナリタルナリ」。
「時規物語」(時計物語)
江戸に到着した漂民6人は鎖国の禁を破ったとして小石川
嘉永元年10月、最終的に帰郷できたのは岩瀬の太三郎、次郎吉、放生津の六兵衛、金蔵の4人でした。この4人が後に加賀藩の金沢に時計を差し出して、異国の様子を語ります。加賀藩が当時の俊才を集めこれを記録させ、修理した時計とともに藩主に提出したものが本書です。大黒屋光太夫の「北槎聞略」以上の記録と称されるものですが、惜しむらくは前田家尊経閣文庫に永い間眠り続けていました。さいわい昭和43年、池田皓氏の解読編集になる「日本庶民生活史料集成」第5巻、「漂流」章(三一書房)が公刊され、私たちも読むことができるようになりました。本書には「時規物語」だけでなく「蕃談」、「北槎聞略」、「船長日記」等、当時の漂流の記録が集成されており、手元におきたい一冊です。なおこの時規(時計)は、その後富山藩に譲られましたが現在何処にあるのか不明です。
「当初に遊女は居不申ず由にて、左様の場所も見受不申候。隠売婦とか申者有之由に候へ共、是は夫ある女にて、渡世のため、夫も承知にて、おのれの家へ人寄せいたし候へども、外へ知れ候ては、掟に背き候様子にて家入口に夫番いたし候て、外の者入来候を気遣申す由に候」(ハワイで)、「六兵衛、次郎吉、女湯入の日を心づかず罷越、湯に入り候処、女ども多く罷在、六兵衛等の様子を見、小指のもとへ拇の先をあて、是を互に見候て笑申候。何故か合点まえらず候処、後に承り候へば、日本人の陽物小さきと笑いたる由に候」(カムチャッカで)など男女にまつわる記事も散見されます。
「漂流人次郎吉物語」
原本は
つぎは雪国育ちの次郎吉が関心をもったシトカの生活のひとこまです。
「又同所にて雪遊びとして、家の棟より板を敷き、板の上へ雪をあげ、踏付けてつらつらにいたし、男女とも、靴をはき板に乗り、棟より男女とも替り替りに下りるに、上手の者は真っ直ぐにすらすらと下り、下手の者は横へ行き、女などは尻まで出し、おなさけ所出候ても隠す事不相成、大笑い也」
以上3冊の長者丸の記録のほかに忘れてならないのは井伏鱒二の有名な小説「漂民宇三郎」です。この小説は素老生手録本「異国物語」を参考にしたとありますが流石に現代作家の手になるだけあって一気に読める本です。主人公の宇三郎は前書に乗組んではいないので、仮想の人物か次郎吉ではないかとの説もありますが、私は長者丸の11番目に乗組んだ実在の人物のように想われてなりません。これに関連して当地の歴史研究の第一人者である道正弘氏は東岩瀬郷土史会会報47号のなかで次の旨の記述をしています。
「これら漂民を東岩瀬では内緒で河原坊主と呼んでいる。子供のころ祖母から河淵に行ってはいけない、河原坊主に尻を抜かれると脅かされたものであるが、どうも河原は唐=外国=河童に通じ怖く忌まわしい存在だったのかもしれない。あの時代こうした風土で育った宇三郎はシトカから生き残りの6人と一緒に帰郷の船に乗ったものの航海の途中で心が変わり、ハワイに残してきた広東人の恋人オレインのことや、郷に帰っても河原坊主にされたり、義兄の投身を親に告げる辛さを思った。そこで彼は仲間と船長の許しを得て船室に隠れエトロフで上陸せず、ハワイに戻った。帰郷を果たした6人は、宇三郎は越後の金六の舎弟であり松前で乗船したことでもあるし、このことを絶対に口外しないと堅い約束をした」。こうした北前のロマンの風をうけて「漂民宇三郎」を読むと、なお一層の興味がそそられるものです。
また道正氏は昭和初年東
13.3 富山の港
富山湾は能登半島に深く抱かれた海域であるため古くから漁業や天然の良港として使われてきた。多くの河川が流入する海岸には、河口や潟を利用して漁港や貿易港が築かれている。
湾奥には歴史的に由緒ある伏木富山港が存在し、1986年に国際貿易上の特定重要港湾に指定された。同港は伏木地区の伏木港、富山地区の富山港、新湊地区の富山新港の3つの港から成る。万葉の時代から利用され古い歴史をもつ伏木港は小矢部川の河口港として栄えてきたが、最近は万葉埠頭を築造し、国際貿易港としての機能を向上させた。富山港は北前船時代から賑わいをみせた神通川の河口港で沖合に28万トンのタンカー荷役用の施設を有し原油の荷揚げを行っている(2010年現在作業休止状態)。富山新港は新産業都市の指定を受けて1968年に誕生した新しい港である。放生津潟を利用した掘込港湾で臨海工業地帯の中核として発展している。現在はコンテナー輸送時代に対応した多目的国際ターミナルや旅客船バースが整備されている。伏木富山港が取り扱う主な貨物は原油、石炭などのエネルギー資源、コンテナー、スクラップ、アルミのインゴット、木材チップ、原木、中古車などである。
図1に富山新港のコンテナー・ヤードを示す。コンテナーの能率的な荷役にはガントリー・クレーン(図2)が不可欠であるが、これは1時間に30個のコンテナーを積みおろしできる。
図1 富山新港のコンテナー・ヤード 図2 ガントリー・クレーン
コンテナー輸送の出現により港湾労働者を10分の1以下に削減し、取り扱い貨物量を100倍以上の速さで処理できるようになった。現在は1隻あたり6000~8000台のコンテナーを積む大型船が就航しているが、残念ながら富山はその基幹航路上にはない。日本海沿岸のコンテナー定期航路の中心(ハブ港)は韓国の釜山港で、伏木富山港(フィーダー港)は小型コンテナ船で釜山を経由し北米や欧州などの主要港と結ばれている。
伏木外港の建設工事は1990年に開始された。海域に北防波堤(1500m)を築き、地先海面を小矢部川河口の浚渫土砂などで埋め立てる大工事である。1997年には-10m岸壁1バース(埠頭)と-7.5m岸壁1バースが、2006年には-14m岸壁1バースが完工し、万葉埠頭として共用が開始された。整備工事は現在も進められているが、新たに出現した港内には富山湾特有のうねりが侵入する事態が発生したり、築港という大規模海洋工事が漁業環境に影響したり、在来の内港部から外港への機能移転に伴う新たな町づくりなど種々の問題も生まれている。
港湾法: この法律は、交通の発達及び国土の適正な利用と均衡ある発展に資するため、環境の保全に配慮しつつ、港湾の秩序ある整備と適正な運営を図るとともに、航路を開発し、及び保全することを目的とする |
漁港漁場整備法: この法律は、水産業の健全な発展及びこれによる水産物の供給の安全を図るため、環境との調和に配慮しつつ、漁業・漁場整備事業を総合的かつ計画的に推進し、及び漁港の維持管理を適正にし、もって国民生活の安定及び国民経済の発展に寄与し、あわせて豊かで住みよい漁村の振興に資することを目的とする |
13.4 船のはなし
船を見に伏木富山港を訪ねた(2008年)。富山港(富山地区、岩瀬)でロシアの自動車専用船が中古車を積み込んでいた。その隣では中国向けの船が大量のスクラップを積んで出航しようとしている。港の沖を見ると大型の黄色いブイで重油を満載した10万トンのタンカーが荷役を始めた。四方漁港では漁船が疲れた船体を休めている。富山新港(新湊地区)にはチップ専用船、石炭専用船、コンテナー船が入港中だ。浚渫船やクレーン船など作業船もいる。ヨット・ハーバーを覗くと大小様々のクルーザー、ヨット、モーターボートが静かに整然と並んでいる。商船高専の練習船の真っ白い船体が目を引く。海王丸パークに行くとボランテアが帆船海王丸の展帆をしており、対岸には
船はどれも美しい。とくに歴史を経て洗練された帆船や客船は、優れた技術と芸術の建造物(naval architecture)だけあり、バランスがとれて美しく、そのスマートな容姿には高い文化の香りを感じる。
大洋を渡る外航船は、電気をつくることから始めすべてを自分でまかわなければならない。そのためいろいろな設備をもっているが、ここでは富山高専の練習船「若潮丸」搭載の航海計器と海洋観測機器について主なものを紹介する。
(航海計器)
測深儀:海底の深さを測る装置。船底から発射された超音波が海底で反射し
戻る時間を距離に換算する。昔はロープを垂らして測った。
レーダ:マイクロ波を発射して物体からの反射波をブラウン管上に映像化す
る装置。夜間や霧中の航海で使う。
GPS:人工衛星を使った位置決めシステム。以前は太陽や星の高度を計っ
て海上の位置を決めた。
ジャイロスコープ:方位を測る機器。高速で回転するコマの指北作用を利用
する。船には磁気コンパスも常備する。
オートパイロット:指定した進路に船を導く自動装置。以前は人が梶をとっ
ていた。
(海洋観測装置)
CTD : 海水の塩分、水温、水深を計測する装置。ウィンチで2000mまで機器
を投下して連続計測する。
ADCP: 海流観測機器。超音波を発射して水中のプランクトンや懸濁粒子によ
る散乱波から海流を計測する。
波高計:船首から超音波を海面に発射して波高を測る装置。
操船者から見た伏木富山港 伏木富山港は、雪による視界の制限、河川水の流出による港口付近の流れの影響、航路近傍の土砂の堆積、北風による波浪や寄り回り波などのうねりの影響、あいがめに象徴される急進な海底地形と定置網の設置からくる錨地確保の難しさ等、地域の特性を反映した問題点が少なくない。港湾が安全でしかも便利な経済的物流拠点として機能するためには錨地の確保と港湾の十分な水深確保は必須な要件である。漁業と海運、港湾整備と環境、魅力ある水辺空間の創出など海域を総合的に利活用していくためには解決を要する幾多の問題があるが、この点に関連してなすべきことは、県民による横断的な議論の場を増やし、県民のための「みなとづくり」にもっと知恵をだしていくことだと考える。ぜひ安全で魅力ある港をつくり環日本海経済圏の要港として発展したいものである。 (伏木水先人会会長 越前精一氏「富山湾に学ぶ会」資料より) |
まとめ
1 日本海は古くから人や文物が行ききする海の道であった。
2 富山の北前船は江戸中期から明治10年代にかけて活躍した。
3 長者丸の漂流譚に次郎吉の人間力をみることができる。
4 伏木富山港は特定重要港湾として発展している。
5
6 用途によりさまざまな船が存在して富山の港に出入りしている。
7 GPSやレーダは航海技術から発展したものである。
よくある質問
① 埋没林と海底林の違いは何か
(答)魚津の埋没林に対して後から見つかった吉原海岸沖の樹根群を海底林と
いって区別している。呼称の違いには、発見された場所、樹種、年代など地学的遺物としての相違が反映されている。
② 蜃気楼は富山以外でも見られるか
(答)多くの場所で見られる。砂漠の蜃気楼が有名であるが、ロシアの船員に
よると北極海に面したチクシー港(材木積出港)などでも見られるという。
③ 富山で観測された高波の最大は何mか
(答)2008年の高波では伏木地区で9.9mを記録した。
参考文献
(1)金関恕著「日本海」、第9回「大学と科学」公開シンポジウム予稿集
-アジアの古代文明を探る-歴史と水の流れ-、1994
(2)村井章介著「中世の北"海"道」、日本海学の新世紀2-還流する文化と美
角川書店、2002
(3)司馬遼太郎著「菜の花の沖」文春文庫、1987
(4)南原幹雄著「銭五の海」学陽書房、2005
(5)宮口とし廸監修「ビジュアル富山百科」富山新聞社、1994
(6)富山新聞連載記事「富山湾に光を」1981
(7)日合武雄著「三陸沖を巡航して長者丸次郎吉を偲ぶ」、海フェスタとやま
セミナ「海・船・人」資料、2006
第12回「水中カメラから見つめる富山湾」
大田希生(水中カメラマン)
12.1 春の水中景観
① 海中林が発達する季節。海中林は海藻が森のように繁茂している
場所。生物が多く、海のゆりかごとも呼ばれる。富山湾西部の灘浦海岸沖には高さ10メートルに達するホンダワラの仲間がジャングルのような海中林をつくる。メバル、キヌバリ、クロダイ、カミクラゲ、オワンクラゲの生態を映像で観察する。
② ホタルイカの身投げ。新湊から魚津にかけての海岸に深夜から
朝方にかけてホタルイカが打ち上がる。
③ 赤潮の発生。ヤコウチュウというプランクトンが大発生する
ため。
④ 海底湧水量が増加する。東部の海底には伏流水の湧出する場所が
多いが、とくに5月頃は1年で一番湧水量が多い。
⑤ アマモの開花。アマモは陸上植物の仲間。
⑥ ワカメ漁。
12.2 夏の水中景観
① 虻が島周辺の光景。夏季のみ遊覧船が就航する。
イワガニ、カエルウオ、フグの仲間、コケギンポ、チャガラ、メジナ、キヌバリ、ホンベラ、オハグロベラ、グビジンイソギンチャク、アカヒトデ、シロウミウシ、アオウミウシ、リュウモンイロウミウシ、キンセンウミウシ、タマミルウミウシ、ハクセンミノウミウシ、ヒブサミノウミウシ、フジイロウミウシの生態を動画で紹介する。
② 緑色になる海水。水温が上昇するとともにプランクトンが増加し
海中の透明度は低く緑色になる。
ミズクラゲ、カサゴ、スズメダイ、ツメタガイ、スナチャワン、アンドンクラゲの生態を動画で見る。
③ 砂地の生き物たち。昼間は隠れているが、夜になると活発に動き
回る生き物たち。
タイワンガザミ、シマウシノシタ、クサフグ、オニオコゼ、メリベウミウシ、ミミイカの生活を映像で見る。
12.3 秋の水中景観
① 回遊魚が岸近くで多く見られる。秋は海水の透明度が高くなり、
魚も増えるためダイビングのベストシーズン。
アカカマス、マアジ、メジナ、イシダイ、メバル、スズメダイ、ヒメジ、アオリイカ コブダイ、アミメハギ、カワハギ、フクラギ、ヨウジウオ、マダイの生態を動画で見る。
② 暖海性の生き物が回遊してくる。遊泳力の弱い生き物が対馬暖流
に乗り日本海を北上し富山湾には秋から冬にかけて入ってくる。冬になり水温が下がると死んでしまうため死滅回遊魚とよばれる。
ソラスズメダイ、フエダイの仲間、キンチャクダイ、エチゼンクラゲの生態を動画で観察する。
12.4 冬の水中景観
① 透明度が最も高くなる。水温が下がるとともにプランクトンが
少なくなり透明度が高くなる。ホンダワラの仲間ではアカモクが海中林をつくる。
アカモク、アイナメ、アユの幼魚、ハタハタの生態を動画で見る。
② 最も水温が下がる2月下旬から4月上旬にだけ現れる生き物がい
る。ミズダコ、ヤリイカ、ニジカジカの生態を映像で観察する。
12.5 海中の環境変化と水中環境改善の取り組み
① 雨晴沖のテングサ場の時系列変化。テングサの好漁場である
高岡市雨晴沖の近年の状況を紹介する。
② 海底ゴミの映像を見る。
③ 藻場造成と取り組むNPO法人「富山湾を愛する会」の海藻増殖
実験を紹介する。
12.6 「まとめ」にかえて
水中カメラで富山湾を見ていると「豊穣の海とはなにか」と考えさせられ、海底湧水とそこの生物群集に出会うたびに「富山湾の生きものにも私たちにもおなじ立山の水が流れている」と海の仲間としての愛(いと)おしさを強く感じる。
以上
第11回「富山湾―自然の恵みと神秘Ⅱ」
石森繁樹
11.1 富山湾で見られる特異な事象
(1) 蜃気楼
風が弱く穏やかな春先の富山湾にはときおり蜃気楼が現れる(図11.1)。これは海上の船や対岸の建物が伸縮したり上下逆さまに重なって見える幻に似た光景で、魚津の蜃気楼が有名である。時期的には4月から6月によく出現する。光は媒質の屈折率によって速度が異なる(光速は屈折率に逆比例し、その屈折率は密度に比例する)。光は1点から他の点まで最小の時間を要する径路を通って進む(フェルマーの原理)ので、媒質により光の速度が違うと不思議な見え方になることがある。たとえば、水平線に沈む太陽を見ているとき、じつは太陽はすでに沈んでしまって本来そこには存在しないのである。これは真空と地球大気の屈折率の違いに由来する。蜃気楼も本質的には、これと同じ光学現象である。海面付近の空気が冷たく、その上に暖かい空気が重なった下密上疎の成層状態では、上に行くほど光は速く進む。この場合、水平線より遠くにあり本来見えないはずの物体が浮き上がって見える。この蜃気楼は実際より高い位置に浮上したり、伸び上がって見えるので浮上蜃気楼とか上方蜃気楼と呼ばれている。
富山湾に蜃気楼が現れやすい理由としては、春の冷たい雪解け水が流れ込むこと、富山湾が高い山に囲まれた静かな海であること、春先にフェーン気味の暖かい南風が吹くこと、対岸の景色が見渡せることなどが考えられる。
図11.1 蜃気楼(吉村博儀氏提供)
(2) 埋没林と海底林
魚津市の海岸付近で約1500年前の杉の樹根が発見された(1930)。これを埋没林という。魚津埋没林博物館には樹齢500年前後の杉の樹根9株と幹2本が保存されている。1995年に国の特別天然記念物に指定された。
また、黒部扇状地の入善沖では水深20~40mの海底から約8000~10000年前のハンノキやヤナギの幹の根元部分が数多く発見された(1980)。佇立する大樹の幹や朽ちかけた樹根群を水中に見る景観はまさに幻想的である( 図11.2 )。この海底林(1)は当時の樹木が黒部川の洪水堆積物で埋もれたあと海流や波により埋積土砂が除かれて姿を現したものと考えられる。海底林は大陸棚が氷河時代に植物が生い茂る陸であったことや温暖化に伴い海水準が上昇したことを示す、気候変動の身近な証拠として貴重な存在である。
図11.2 入善沖の海底林
(3) 寄り回り波
富山湾の「寄り回り波」は日本海の代表的なうねりとして知られている。北東に開いた湾の形と海底地形が関係して特定の海岸で高波となり、冬の凪いだ日に突如来襲する。うねりの発生源は
図11.3 寄り回り波の衛星画像
(ERS SAR 19930318)
富山湾は2008年2月24日の高波(3)により死傷者18人を含む大きな災害にみまわれた。県東部の
今回の高波は「寄り回り波」に、北西風による風浪と連続的に押し寄せた波により海岸水位が上昇するなどの要因が加わり通常より更に波高が増したものと考えられる。
「寄り回り波」にはこのように災害をひきおこす厄介な面があるが、波と波に伴う流れは、沿岸水を撹拌し海藻はじめ海中生物に対して酸素や栄養塩類の供給を促進するとともに、浮泥を除去したり、海藻の掃除をするなど、沿岸の水中環境をリフレッシュする大切な働きのあることも認識する必要がある。
図11.4被災した北防波堤
(4) 海岸侵食
白砂青松の自然海岸が少なくなった。富山湾もその例にもれず海岸沿いには防波堤が築かれ、外側には離岸堤が続いている。この光景は、海岸侵食という自然の猛威に立ち向かう人間の営みを物語るものである。富山湾では黒部扇状地海岸や宮崎海岸の海岸浸食が著しく、汀線が40年間に20mないし90m後退したところがある。また、下新川海岸における突堤建設の結果、東側に土砂が堆積し西側で著しく侵食が進行した例がある(図11.5)。海岸侵食の直接的な原因は波浪や海浜流などの営力であろうが、海岸を構成する物質の性質と背後地から運ばれる物質量の多寡に左右されるから供給土砂を減少させる砂防工事やダム建設など人為的影響も無視できない。富山湾の海岸侵食が顕著な理由のひとつには、大陸棚が狭く、海底谷の谷頭が河口のすぐ先まで迫るという特殊な地形がある。河川から排出される土砂は大陸棚に堆積するのがふつうであるが、富山湾の場合は深海に直送される(4)ようである。
(5) オオグチボヤ
深海に棲む原索動物のホヤの仲間である。ホヤは昭和天皇が研究対象とされたとか、原索動物なので進化論的に人の先祖にあたるとか、ホヤが有するバナジュウム濃縮能力が注目されたり、酒の肴として珍重されるなど何かと話題の多い生き物である。
2001年に富山湾七尾沖でオオグチボヤのコロニーが見つかった(5)。これまでモントレー湾(米)、チリー沖、南極、相模湾で見つかっていたが、コロニー(群集)の発見は富山湾が初めてという。図11.6のようにマスコット向きの愛嬌のある姿をしている。その後の調査により、オオグチボヤは水深が約300m以下の海底斜面にある岩盤や沈木、空き缶などに付着して群生していること、七尾以外でも氷見、新湊,魚津沖に広く分布することなどが明らかにされた。オオグチボヤは大きな口をあけ一体何を食べて生きているのだろうか、いままさにその謎解きが始まろうとしている。
図11.5 宮崎漁港 図11.6 オオグチボヤ
(海上保安庁提供) (精密模型、体長10cm)
竹内章教授(富大)提供
11.2 「富山湾に学ぶ会」
本会は富山湾の面白さあるいは学問的に興味をひく話題を中心に海を語る勉強会として出発した。発足は国連海洋法条約が採択された翌年1983年である。当初は富山湾の調査・研究から得られた話題が中心であったが、現在は富山湾だけではなく日本海の環境や地学的な問題など多方面からテーマを集めて議論をしている。勉強会は毎月1回のペースで、誰もが気軽に参加でき、楽しい意見交換の場となる、をモットーに続けている。本会は2010年6月現在で163回を数えた。
「富山湾に学ぶ会」で発表された講演テーマの一部を列挙してみる。富山湾に関連したさまざまな話題があることを知ってもらえれば幸いである。
富山湾の地形と底質
富山湾の海況
富山湾における竜巻と冬雷
あいがめの生物たち
富山湾東方の深海サンゴ
富山湾のサケについて
富山湾の深海生物-なぜいま深海生物か-
富山湾のエビ(クルマエビを中心として)
富山湾深層水の物理的環境について
富山湾近海における潜水活動と潜水機器について
合成開口レーダ画像にみる富山湾の沿岸波浪
富山湾のアマエビ
富山湾の海水の流れ-暖流と寒流はぶつからない-
海王丸永久保存の意義を考える-海洋文化の生涯教育と地域
おこしの核として-
中新世の富山湾古環境-
富山湾のホタルイカ資源
富山湾産アユの生活史
富山湾の深層水
富山湾のブリ
富山湾の波と土
富山湾の海藻
ベニズワイを飼育してみて
富山の蒲鉾
海水からの有価物の製造-水酸化マグネシウムの採取について-
海水からの有価物の製造-臭素の採取について-
富山湾の海底地震計観測
衛星観測による重油流出状況把握の試み
地球温暖化と富山
日本海重油流出事故の被害にあった海鳥類とその寄生虫
深層水を使ったサクラマスの飼育
漁業制度からみた富山湾
素人の夢、深海の夢
しんかい2000で見たベニズワイガニ
海難防止論-21世紀への課題-
ホタルイカと光-光環境と産卵行動-
黒部川河口周辺の海底ビデオ映像
ブラックバスをとりあげる
海洋汚染の人工衛星による監視
富山湾の海底環境とマクロベントス
海洋深層水および濃縮水の温浴による健康作用
「神秘の海・富山湾」を取材して
富山湾圏の構想について
富山湾を特徴づける生き物は?-オオグチボヤやアバタカワリギンチャク-ほか」
富山湾の海上における鯨類の目撃記録
富山湾とその周辺の珪藻化石あれこれ
富山湾のアユの話
鮮新世三田層雑感
伏木富山港の水先
子ぶり石に新しい仲間-ノジュールの成因に向けて-
富山で生まれた日本海学
海洋深層水の運動浴による健康増進効果について
能登半島の岩のり
帆船海王丸のボラテア20年
富山湾でのCTD・ADCP調査報告
* 富山湾の海中の四季
本会は毎月第3土曜日(14~16時)、富山駅前の市民学習センタ
(CiCビル3階)で開催。会費100円。
まとめ
1
りする。
2 数千年前の森林の残存物を埋没林(
る。
3 日本海のうねりとして「寄り回り波」がある。
4 富山湾の海岸線は砂質海岸が多く自然海岸が少なくなった。
5 富山湾にもときに高波被害が発生する。
6 富山湾で最近オオグチボヤのコロニーが発見された。
よくある質問
① ホタルイカ、ブリ、シロエビの漁獲高(トン/ 年)はどれくらいか
(答)ホタルイカ2098 、ブリ2012、シロエビ490。 ここでブリの数値はフクラギ
1691、ブリ240、ガンド81の合計とした(
② 水深が急に深くなることで何か影響はあるのか
(答)海水の湧昇のような上下運動や内部潮汐に伴う複雑な運動が起きやすく、
生物にとっては深いところから浅所へ簡単に辿り着ける魅力的な場所なのではないか、と思考する。
③ シロエビの長期生態展示ができるようになったと聞くが、改善点は何か
(答)生息環境(水温、照度、水流など)を水槽内に再現することおよび餌料の
選択や餌つけで試行的な改善が行われた。近畿大学水産研究所はシロエビの生態観察(甲殻類の脱皮現象など)や卵から孵化させた稚仔の育成に向けた実験研究を続行している。
④ オオグチボヤの根元の部分はどうなっているか
(答)ホヤの幼生は一時期プランクトン生活をするが、やがて変態して海藻の
根のような付着器(根元の部分)を生じ岩などに固着した生活をはじめる。
⑤ ホタルイカは富山湾以外どこに生息しているか
(答)日本海、相模湾、駿河湾、房総沖など広範に生息する。
⑥ なぜ出世魚は成長とともに名前が変わるのか
(答)姿や大きさの違う魚であれば名前が異なって当然であろう。ブリなどは
1年魚、2年魚でひとまわりもふたまわりも身体が大きく立派に成長する縁起魚だから武士が出世して改名したように、異なる名で呼ばれるようになったものと想う。「ブリハマチもとはイナダの出世魚(しゅっせうお)」
⑦ 富山は鱒寿司が有名だが、鮭と鱒の違いはあるのか
(答)サケ科の魚を種によってサケとマスと呼んでいるだけである(6)。サケ科の
魚にはシロザケ(新巻としてなじむ)、ベニザケ、ギンザケ、サクラマス、ニジマス、ヒメマスなど世界で70種ほどが知られている。サケ科の魚には降海型(川で生まれ海に下って成長したあと母川に戻り産卵する)と陸封型(一生を川で過ごす)がある。降海型のサクラマスの陸封型はヤマメであり、降海型のベニザケの陸封型はヒメマスである。富山の鱒寿司には神通川を遡上するサクラマスが使われたが、現在は
参考文献
(1)藤井昭二、奈須紀幸編著『海底林』東京大学出版会、1988
(2)Ishimori,S. et al. On the Image of the "Yorimawari-nami" by SAR,
Report of JERS/ERS System Verification Program,MITI/NASDA,1995
(3)石森繁樹、林節男「高波被害と海洋教育」日本環境学会第34回研究発表会
in富山予稿集、2008
(4)中島健「富山湾における河川から深海への土砂輸送過程」
日本海洋学会講演要旨集、2007
(5)張勁「陸と海がつながる自然の循環系」日本海学の新世紀3、
角川書店、2003
(6)上野輝弥、坂本一男著『日本の魚』中公新書、2004
第10回「富山湾―自然の恵みと神秘Ⅰ」
石森繁樹
10.1 富山湾の特徴
私たちは富山湾から沢山の恵みを得ている。なかでもブリ、シロエビ、ホタルイカなど海の幸(図10.1)は人々の食生活を豊かにし、観光の振興に役立っている。天然の生簀(いけす)といわれる富山湾では暖海性の魚と寒海性の魚が獲れ、環境に優しい定置網漁のお陰でキトキトの味が楽しめる。魚が旨いのも、それなりの理由がなければなるまい。名物誕生の根拠を富山湾の特徴の中に探る。
図10.1 富山湾の海の幸
富山湾は能登半島と飛騨山脈の大地形によってつくられた開放的な湾で、その景観は見る角度によって大きく異なる。氷見から東を望めば海を隔て魚津周辺の市街と北アルプスの雄大な眺望が開け、射水から北を望めば海の向こうに水平線が広がる。魚津から西を望めば対岸には南北に伸びる能登半島のなだらかな丘陵地形がある。湾に船を浮かべて南を望むと高低差のない海岸線に松林、市街地、臨海工場地帯が一線に並ぶ単調な陸風景が続き、海上からはつねに立山を中心とした雄大な自然のパノラマを楽しむことができる。
富山湾の特徴のひとつは急に海が深くなることである。図10.2の海底地形図は海水を取り去ったときの想像図で音波観測に基づいて作成された。水は電磁波(光)に対して不透明なので、海底調査など海中の観測の多くには音波が使われる。図は富山湾を北側から俯瞰した海底地形図であるが、海底中央部を南(図の上方)に行くと急崖にぶつかり、陸棚斜面に刻まれた海底谷を通れば容易に浅い大陸棚に登りつく。その谷頭は藍甕(あいがめ)といわれる谷の駆けあがりで、いくつもの定置網(1)が設置される好漁場になっている。海底谷には現在河川の延長部分が水没したものと、存在理由が不明なものがある。後者の成因としては褶曲、乱泥流の下刻、地下水の流出などが考えられる。富山湾の大陸棚は非常に狭い。200m以浅を大陸棚とすると、観音崎から宮崎鼻までの範囲では氷見で約7km、生地鼻では1km(海底勾配が0.2もあり大陸棚と呼ぶには抵抗を感じる)に満たない幅である。富山湾の海底1000mの深みには富山トラフといわれる凹地があり、大和海盆に達している。富山トラフにはさらにこれを刻んで深海長谷が走り、糸魚川の北から日本海盆まで長さ約400kmを流れ下っている。これが日本周辺海域で最大規模の富山深海長谷である。
図10.2 富山湾の海底地形
(日本近海海底地形誌、茂木昭夫)
富山湾の海水は層構造を形成している。300m以下の深層を冷たい日本海固有水が占め、その上に暖かい対馬暖流系水が乗り、そのまた上の表層(0~10m)を低密度の河川水が覆っている。
富山湾には多数の河川から淡水が流入しているが最近は海底湧水による淡水供給が話題になっている。張(富山大学)の推定によると海底湧水( submarine groundwater discharge)は月平均3.8×108 m3で県内河川水の月平均流入量8.1×108 m3と同じオーダーというから、富山湾の海洋環境を考えるうえの新たな因子として挙動が注目される。
富山湾の海水流動は対馬暖流が能登半島を通過する際の勢いによって複雑に変化する。連続した水中では、ある一部分が速く動けば、それを追いかけて流れが生じ互いに連動して運動が起こるからである。図10.3は各季節における湾内の平均的な流況を表したもので、各層の水温観測から求められた海水の密度分布、いわば海水中の高・低気圧分布から圧力傾度力を計算して得られたものである。流れは複雑であるが、海水が反時計回りに西から東へ向かう傾向は、ブイや海底設置の流速計、電磁海流計を曳航しての計測などでも確かめられている。また、富山湾からの漂流物は多く新潟方面に流れ、流出河川の拡散状況を映した衛星画像にも西から東へ向かう流れがしばしば見られる(図10.4)。こうした海水流動は海岸から数百メートル沖合いの流れで沿岸流といわれる。
海水流動のややこしさはそれが決して2次元的でない点にある。富山湾にはたくさんの定置網が仕掛けてあり、網をあげる漁師は身をもって流れの性質を知っている。彼らにとって表層と下層の流れが違うことは常識である。海底谷が発達した四方沖の海域では神通川の影響もあり、潮で網が破られることがある。とくに下層の流れは複雑で海底谷の谷頭をかけのぼる潮を土地の人は鉄砲水と呼んでいる。
海岸にごく近いところでは海浜流が卓越する。これは、おもに波浪によって岸近くに生じる流れで、海岸の侵食や海浜の砂礫を運搬する漂砂の原因となる。下新川海岸では漁港建設工事などで防波堤を築くと東に砂州がつき、反対側の西で侵食が進む。これは海浜流が西向きであるとすればうまく説明がつく。黒部川扇状地の等高線は同心円の整った扇形というよりは全体的に西にゆがんで見える(藤井昭二教授談)。これも海浜流の絶ゆまぬ営力のなせるわざと考えれば納得がいく。富山湾で沿岸流と反対に東から西へ向かう海浜流が存在するのは、冬場に北寄りの波が卓越することと海岸地形の向きが招来する自然の結果なのだろう。海浜流には岸に平行な並岸流と沖へ向かう離岸流が知られており、富山湾でも離岸流による水の事故が起きている。海水浴の最中にいつもと違う流れに遭遇し、なかなか岸に泳ぎつけないことがあれば慌てずに岸と平行に泳ぎ、この流れ(これが離岸流、幅は狭いので真横に泳ぎきるのは簡単)をぬけ出した後、ゆっくり岸に向かうことが肝要である。
図10.3富山湾の平均流動パターン 図10.4 河川水の流出拡散状況
(内山勇、1993) 黒部沿岸 LandsatTM19950829
10.2 富山湾の名物
(1) 富山湾の神秘ホタルイカ(2)
春3~6月に沿岸の定置網で漁獲される。暁の海面に踊る青緑色の神秘な光は人を魅了する。この発光生物(図10.5)については、常願寺川河口から魚津の沿岸15kmと沖合1.3kmの産卵群遊海面が国の特別天然記念物に指定されている(3)。光は酵素ルシフェラーゼのもとでの発光物質ルシフェリンの酸化反応で生じるが、なぜ光を放つかの理由(図10.6)については、身を隠す(counter shading)、敵の眼をくらます、照明や交信のためなどと考えられている。ホタルイカの寿命はほぼ1年で、昼は深海の200~600mで生活し、夜間に30~100mまで浮上する、いわゆる鉛直日周運動を行うようであるが生活史や生態については未だ不明な点が少なくないという。
(2) 富山湾の王者ブリ(4)
成長するにつれ名前が変わる出世魚で、富山では生まれて1歳くらいまでをツバイソ、コズクラ、フクラギ、2,3歳までをハマチ、ガンド、それより大きいものをブリと呼んでいる。東シナ海(五島列島近海)で生まれ、稚魚のうちはホンダワラなどの流れ藻に付いて生活することが観察されている。2,3年後には体長約60cmの紡錘形に成長し、沖合の長距離回遊生活を始める。春から夏に対馬暖流に乗って
(3) 富山湾の宝石シロエビ(5)
シラエビともいう。生体は無色透明であるが、死後白濁する。漁獲は4~11月に、あいがめの駆けあがり40~200mの水深で行われる。日本近海に広く分布するが、高密度に生息して漁業の対象になるのは富山湾だけである。
(4) ホッコクアカエビ(6)
アマエビと通称される。もともと環北極海に棲む寒海性のエビで南限が日本海である。氷河時代に棲みついたと思われる遺存種で、水深200~600mの日本海固有水域に生育する。小さいときは雄で大きくなると雌に性転換する雌雄同体魚(雄性先熟)である。
(5) ベニズワイガニ(7)
富山湾の代表的な味覚のひとつ。水深400~2700m、水温1℃以下の低水温・高水圧環境に適応した日本海の代表的深海生物である。カニかご漁法の普及により資源量が減少したので資源管理がなされている。
10.3 富山湾の魚はなぜ美味い
富山のさかなの美味さの秘密について富山水産研究所の内山勇氏は次のように語る。
* 暖水性から冷水性まで、回遊魚から海底に棲む魚種まで、多様な魚介類に富
んでいる。
* 多くの魚が生活サイクルの中で美味い時期に獲れること。たとえば、ブリは
秋から冬にかけて南下回遊し富山湾で漁獲される頃は脂が乗っている、ホタルイカは産卵時期に獲れ、卵や内臓が充実している。
* 魚が生きたまま、資源に優しい定置網で漁獲される。
* 漁場が近く、市場に新鮮な魚が供給される。すなわち、多様な魚介類がその
美味しい時期に高い鮮度で供給されることが富山の魚のうまさの秘密ということであるが、まさにその通りであろう。
図10.5 光るホタルイカ 図10.6 光を放つ理由
まとめ
1 富山湾の地形は高度差4000mに象徴される
2 富山湾は大陸棚が狭く、急に深くなる
3 富山湾の海水は3層構造になっている
4 富山湾の流れに沿岸流と海浜流がある
5 富山湾は海の幸に恵まれている
6 富山湾の魚が旨いのにはそれなりの理由がある
よくある質問
① 対馬暖流の流速はどの程度か
(答)最大1.7ノット、普通は0.3ノット程度。因みに黒潮の流速は3~5ノット。
② ベナール型の対流とは何か
(答)シャーレに容れたエーテルに銀粉(アルミ粉末)を混ぜると、表面に六角
形をした蜂の巣状の細胞模様が見られる。エーテルの蒸発で上面が冷却しできるこの対流パターンを発見者にちなみベナール対流と呼んでいる。細胞の水平スケールは深さの約2倍になることが知られている。
③ 間宮海峡はなぜタタール海峡とも呼ばれるのか
(答)シベリア・ロシアに住む部族タタールによるものか。中国(明)ではタタ
ールを韃靼(だったん)と称した。間宮海峡(19世紀初頭間宮林蔵が海峡であることを発見)、タタール海峡、韃靼海峡みな同じ。(「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」 安西冬衛の一行詩)
④ 海面の渦はどのようにして計測するのか
(答)渦の大きさは様々であるが、総観規模(synoptic scale)の渦はリモート
センシングを用いた海面温度(SST)分布の計測によることが多い。
⑤ 日本近海には何種類の魚が棲んでいるか
(答)正確な数は不明である。目安の一つとして3600余種(本間義治著「日本海
の魚類相」、日本の科学者Vol.30、No.3、1995)を挙げておく。
⑥ 地球温暖化が海流を変え、寒冷化などの異常気象を生じる可能性はあるか
(答)地球が温暖化して、たとえば大西洋のグリーンランド近海で冷水の沈み込
みが小さくなると深層循環に異変が生じメキシコ湾流が弱くなる。そうすると湾流が運ぶ多量の熱が北部ヨーロッパに供給されなくなり寒冷化する。これに関連して、ベルとストリーバーの文庫本『The Coming Globl Superstorm 』(8)が面白いので一読を薦めたい。また、IPCCの第4次報告書(2007)(9)にも"Has the Meridional Overturning Circulation in the Atlantic Changed ?" なる囲い記事がある。
⑦ 地球温暖化が日本海に及ぼす影響は具体的にどのようなことが考えられるか
(答)IPCC(気候変動に関する政府間パネル)から第4回目の報告書が出た。1990
年の第1回報告書では控えめな表現で気温上昇と人間活動との関連について言及していたが今回は表面温度が100年で0.74℃上昇し人類起源の影響が大きく効いていると明記している。報告書によれば海面温度は0.67℃、海面水位は17cm上昇した。気象庁は現在、「海洋の健康診断表」として日本近海における海面水温の長期変化傾向の情報を流している。これによると日本海の中部でこの100年間に海面水温が1.6℃、南部で1.2℃上昇し、北部では統計的に有意な結果が出ていないという。さて地球温暖化が進めば日本海はどうなるのであろうか。これに関して最近の日本海で起こったことを思い返してみると①水温が上昇した、②深層水の生成が弱くなった、③私たちが体感的に知っているように雪が少なくなった、④
図10.7 亜熱帯循環系の海面水位
参考文献
(1)今村明著「定置網」富山大百科事典、北日本新聞社、1994
(2)奥谷喬司編「ホタルイカの素顔」東海大学出版会、2000
(3)坂下顕著「富山湾魚類図鑑 ホタルイカ」アキ編集室
「出版倶楽部」、1999
(4)坂下顕著「富山湾魚類図鑑 ブリ」アキ編集室
「出版倶楽部」、1999
(5)坂下顕著「富山湾魚類図鑑 シラエビ」アキ編集室
「出版倶楽部」、1999
(6)坂下顕著「富山湾魚類図鑑 ホッコクアカエビ」アキ編集室
「出版倶楽部」、1999
(7)坂下顕著「富山湾魚類図鑑 ベニズワイガニ」アキ編集室
「出版倶楽部」、1999
(8)Whitley Strieber and Art Bell, The Coming Global
Superstorm, Pocket StarBooks, 2004
(9)UNFCCC/WMO/UNEP IPCC Forth Assessment WGI Report. IPCC,
2007